なんでも選べる都会にいて、選べる選択肢が無限である状態をキープしているつもりが、時間だけが経って手元には何も残らないということを昔、漫画で描いたことがある。『傲慢と善良』でヒロインとは対照的に主体性のある人間として描かれている彼もまた、今まで何もかもを選んできたつもりが、結局は誰をも選ばず、振り返れば一番欲しかった女性が残らなかったと心中で嘆いているのだ。

 人間とは、自らの決断のみで生き方を選択するのを究極に面倒とする生き物である。

 震災のあった2011年、私の妹は結婚相手の生まれ故郷であるカナダで暮らしていた。離婚が成立してから母と息子と連れ立って妹宅を訪れた私は、心の底に妹への羨望と妬みを感じて自己嫌悪に陥った。

 カナダの首都であるトロントは先進国の中でも指折りの住みやすさを誇る街だ。治安が良く、美しい湖と洗練された街並みの中で地震の心配もなく、原発事故の影響を不安がる必要もない。日本から遠く離れたその場所に、愛する夫と子供のために住む必然性がある妹。

 対して私は、離婚を決めたは良いものの、幼子を連れてひとまず住む場所といえば自ずと実家近くに限られてくる。自由に住みたい場所に住めば良いと言われても、他者からの必然がないから選べない。自分が選んだ行動の先に不安があるくらいなら、予め決められた不運に巻き込まれる方が楽なのだ。

 小説を読み進めるうち、主体性の乏しい「真実」へのもどかしさと同時に、結婚相手に遠く離れた場所へと連れ出された妹の運命への、私自身の強烈な嫉妬が蘇る。

 誰かこの鬱屈から外に連れ出してくれ。

 そういう運命だと、誰か私に決めてくれ。それなら、全てを捨ててそこに賭けられるのに。

 人は弱い。だから『傲慢と善良』の「真実」のように、誰もが納得する結婚という形をもってして、自分の選択した行動を外側から運命付けられたいのだ。

 物語は終盤を迎えるにあたり、件の震災の地に舞台を移すことになる。何も選べなかった主人公たちが、震災の現場に立ち戻るという流れは、私にはとても自然に思えた。

 東日本大震災は私たちに何を与えたのか、それは膨大な損失と引き換えの、成長の機会でもあったと思う。

 逆作用として、今までの人間関係を見直すきっかけも与えた。不要だったものを整理する、婚活とは逆の縁切りも当時盛んに報道されていた。

 冒頭に記したように私自身がそんな影響を受けた一人だった。この先いつ何があるかわからない、人生は明日にも終わるかもしれない、そう考えた時に無理をして続けるべきものとそうでないものが明確になった末の離婚だった、と説明すれば少しだけ理解してもらえるだろうか。

 この約十年は私たちにとって、「何もかもを地縁や親に、選んでもらってきた子どものような時代」から、「その代償込みで何かを選び取る大人へと成長する時代」への転換のような気がしてならない。

 この小説で時に自分を見失い、葛藤しながらそれを体現する真実と架と共に私たちもまた、地続きの自由へと一歩踏み出すのだ。

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