1937年は日中開戦の年。7月7日の盧溝橋事件が、45年8月まで続く長い戦争のスタートといわれている。でも、その詳細までは知りませんよね。山崎雅弘『1937年の日本人』はこの年の東京朝日新聞や大阪朝日新聞を題材に、世相や言論がどう変わったかを追った本。それだけなのに、マジで戦慄を覚えてしまった。
37年前半の日本は、軍部の政治介入、物価の高騰などの問題を抱えながらも、平和だった。広田弘毅内閣、林銑十郎内閣の相次ぐ退陣を受け、6月4日には近衛文麿内閣が発足するも、6月30日の時点では、まさか1週間後に日本を破滅に導く戦争が勃発するとは誰も思っていなかった。
7月7日深夜、盧溝橋付近で日中両軍の小競り合いが起こる。〈北平郊外で日支軍対峙〉として最初にこれを伝えたのは翌8日の号外だったが、両軍は交渉に入り、9日の号外は〈日支両軍一斉に 撤退の交渉成立〉と、10日の朝刊は〈支那軍遂に撤退完了〉と報じている。やれやれ一安心である。
ところが翌11日、突然論調が一変する。〈支那軍・撤退協定を蹂躙〉(11日)、〈自衛権発動の派兵〉(12日)。11日、内閣は新聞社や通信社の代表者を招いて懇談をもち、戦争協力を要請したのだ。
この日から政府もメディアも戦時体制にまっしぐら。7月下旬には〈爆襲! 砲撃! 北支掃討の聖戦〉〈皇軍破竹の勢い〉のような煽情的な見出しが躍り、戦死傷者が1200名を超えた8月には〈“よく死んだ”戦死を褒める両親〉などの殉国美談が載り、12月の南京陥落の際にはお祭り騒ぎで〈南京城今や我が掌中〉。
副題は「なぜ日本は戦争への坂道を歩んでいったのか」。〈ゆるやかなグラデーションのような形で、人々の生活は少しずつ、戦争という特別なものに染まっていった〉と著者はいう。〈昨日までと同じように、ある道を歩いていたら、気がつくと下り坂になっていた〉。にしても下り坂のなんと急なことだろう。たった3週間で戦争モードに突入しちゃうのだ。それは昔の話だなんて誰がいえる?
※週刊朝日 2018年6月29日号