慰安婦、南京事件、東京裁判などの歴史を否定する言説が後を絶たない。〈歴史修正主義に対する批判は非常に多いにもかかわらず、それでも勢力は縮小するどころか拡大しているように見える。なぜなのか〉──。それは私もぜひ知りたい。倉橋耕平『歴史修正主義とサブカルチャー』はこの面倒な問いにメディア論の立場からアプローチした刺激的な一冊だ。

 歴史修正主義の発祥は1990年代にさかのぼる。93年の河野談話や95年の村山談話に右派が反発、96年には「新しい歴史教科書をつくる会(つくる会)」が、97年に日本会議が発足し、右派が保守論壇で発言力を持ちはじめた。これが今日のいわゆる「ネット右翼(ネトウヨ)」の源流である。

 というところまでは私も認識していたけれど、問題はそのプロセスだ。先鋭化したアマチュアリズム(歴史や政治にかかわる言説が学者からアマチュアの論者の手に移る)、言論の市場原理化(受ける・売れるが優先される)、「正論」などに見られる過剰な読者の登用(投稿欄の拡張)。こうして〈誰しもがアマチュアとして資格を得て、言論に参加し、拡散し、イデオロギー闘争に参加していくことが可能になった〉のだと。

 看過できないのは、こうした言説が自己啓発書などのディベートと高い親和性を持っていたという指摘である。そこでは〈真実よりも説得性が重視される〉。〈さしあたりその場の議論で主導権を握ればいいのだから、根拠はもっともらしいものであれば〉よく、〈他者を「言いくるめる」ことそれ自体が目的の中心になる〉。

 ディベートは二項対立のコミュニケーションだから、いい加減な言説でも格上げされて「二大通説の一つ」のように見えるのだ。

 読者参加とディベートかあ。これらに対抗するのは容易ではない。〈「彼ら」は、学者による批判を意に介さない。「ゲーム」(知的枠組み)が違うからだ〉。はたしてルールが異なる相手との会話は可能なのか。茶化す、無視する、説得する。どの手も無効だと認識することが第一歩みたい。

週刊朝日  2018年6月15日号