6月12日に92歳で他界した大田昌秀さん。『首里城で米軍を見た 大田昌秀が語る「沖縄」』は2015年3月に掲載された朝日新聞のインタビュー記事をオンデマンド形式で出版した本。薄い一冊だが、ここには大田さんの人生と戦争の記憶が詰め込まれている。
久米島で生まれ、父はブラジルへ出稼ぎに。家は貧しかったが、周囲の助けやすすめもあり、1941年、沖縄師範学校に入学した。しかし、45年3月に米軍が上陸し、沖縄戦がはじまると、大田さんも鉄血勤皇師範隊(学徒隊)の一員として軍に徴用された。
軍では民間壕に大本営発表のニュースを伝える仕事をさせられたが、6月19日、隊の解散を告げられる。〈壕を出たところで至近弾を受け、右足の裏をえぐり取られて歩けなくなった〉大田青年の横を数人が走り抜けた。〈1人が「大田君じゃないか」と。学友でした。彼は、「俺は斬り込みに行くから必要ない」と食料を手渡してくれた。斬り込み隊とは、敵陣に突っ込んで白兵戦をするのです。その後、彼とは会えていません〉
戦後も沖縄の戦いは続いた。農地の強制収用に反対する沖縄の島ぐるみ闘争(56年)。返還で米軍基地が本土並みに縮小するのではという住民の期待が完全に裏切られた本土復帰(72年)。知事時代には橋本首相と普天間飛行場の返還について話し合い、クリントン大統領とも面会の機会を得たが、代替地の件は語られなかった。以後、渡米すること7回。
本土と沖縄の溝は深まるばかり。〈溝を埋めるには、代替基地は造らないと決めたうえで、新しい発想で解決するしかないのです〉の一言は、知事として現地を誰よりよく知る人の発言だけに重い。
〈私は、「沖縄を通して日本の民主主義の成熟度が測れる」と訴えてきました〉。しかし、本土の人々には負担と責任を負う気がない。〈自らの平和と安全の犠牲となっている他の人を顧みないのは、人間らしい生き方とは言えないのではないでしょうか〉
そうだよね。沖縄問題は日本の民主主義の問題なのだ。
※週刊朝日 2017年7月7日号