現役引退も考えたのに、シーズン途中のトレードが吉と出て、結果的に選手生命を延ばしたのが、金村義明だ。

 近鉄の中心打者として長く活躍した金村だったが、94年は打率.299と好調にもかかわらず、若手の中村紀洋を育てたいチーム方針から、試合中にコーチから「もう帰ってええわ」と言われるなど、不遇をかこっていた(自著「在日魂」講談社)。

 そんな金村に、翌95年から中日監督復帰が内定していた星野仙一氏がラブコールを贈り、「1年1億円の3年契約」の好条件を示してくれたので、オフにFA宣言した。

 ところが、同年、中日がシーズン最終戦まで巨人と優勝争いを演じたことから、一転高木守道監督の留任が決まる。金村は何とか中日に移籍できたものの、FA選手なのに年俸は現状維持に抑えられた。

 さらに移籍1年目は右足内転筋、右肩腱板を痛め、出場28試合の打率.177と低迷。星野監督が就任した翌96年も、新外国人のダネル・コールズに出番を奪われ、一時は引退を決意したが、10月6日の巨人戦で宮本和知から同点打を放ったことで、かろうじて首がつながった。

 だが、翌97年も練習で打球を受けて腰椎第一突起骨を骨折、開幕を2軍で迎える羽目に。そんな矢先の4月10日、“ポスト清原和博”と期待された垣内哲也の不振など、右打者不足に悩んでいた西武への緊急トレードが決まったことが、大きな幸運をもたらす。

 当初は4月15日の日本ハム戦から出場予定だったが、「近鉄時代にお世話になった兄貴分の佐々木(恭介)監督の前でいいところを見せたい」と東尾修監督に直訴し、同18日の近鉄戦に照準を合わせて調整に励んだ。

 そして、この試合の第1打席に小池秀郎からいきなり移籍1号。この一発が運気を上げたのか、その後も一塁手や代打として73試合に出場し、打率.306の好成績でチームの3年ぶりVに貢献した。

 シーズン途中のトレードが大きな転機となり、野球人生の晩年で輝きを放ったのが、金沢健人だ。

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