
1960年代後半から80年代にかけ数々のヒット曲を放ち、音楽界、芸能界の頂点に立った沢田研二。「君だけに愛を」(68年/ザ・タイガース)、71年にソロデビューしたあとは「危険なふたり」(73年)、「時の過ぎゆくままに」(75年)、「勝手にしやがれ」(77年)、「TOKIO」(80年)……彼の楽曲は、セールス記録はもちろん、印象的なパフォーマンスと演出、一本筋を通した生きざまで、多くの人の記憶にも残っている。
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日本の芸能史上、沢田研二とはいったいどんな存在だったのだろうか、そして、社会に何をもたらしたのだろうか。昭和を代表するスターの軌跡を綴った短期集中連載の第4回。
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阿久悠・沢田研二劇場の終焉、次のステージへ
78年に「サムライ」「ダーリング」「ヤマトより愛をこめて」「LOVE(抱きしめたい)」と立て続けにヒットを放った沢田研二。
目標にしていたレコード大賞二連覇は、折から大ブレイクしていたピンク・レディー「UFO」によって阻まれたものの、代わりに第29回NHK紅白歌合戦ではロックの流れをくんだ男性歌手として初の大トリを務め面目を保った。
翌79年も沢田研二は「カサブランカ・ダンディ」「OH, ギャル」とインパクトの強いヒット曲を連発。

この年、阿久悠が突如として断筆宣言し、シングル連続9作、2年余に及んだ「阿久・沢田劇場」は終幕を迎えるが、その次に沢田研二が目指したものは来るべき80年代のパイオニアの地位だった。
日本の80年代は「TOKIO」から始まった
80年1月1日、沢田研二にとって大きなターニングポイントとなるシングル「TOKIO」がリリースされた。
当時、民放テレビ全局で放送されていた「ゆく年くる年」。カウントダウンが午前0時を告げた瞬間、闇の中で電飾が瞬きだし、最先端のテクノポップサウンドに包まれた沢田研二が大きなパラシュートを背負って歌い出す……この前代未聞の演出に日本中が驚嘆した。