
1960年代後半から80年代にかけ数々のヒット曲を放ち、音楽界、芸能界の頂点に立った沢田研二。「君だけに愛を」(68年/ザ・タイガース)、71年にソロデビューしたあとは「危険なふたり」(73年)、「時の過ぎゆくままに」(75年)、「勝手にしやがれ」(77年)、「TOKIO」(80年)……彼の楽曲は、セールス記録はもちろん、印象的なパフォーマンスと演出、一本筋を通した生きざまで、多くの人の記憶にも残っている。
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日本の芸能史上、沢田研二とはいったいどんな存在だったのだろうか、そして、社会に何をもたらしたのだろうか。昭和を代表するスターの軌跡を綴った短期集中連載の第3回。
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ドラマ「悪魔のようなあいつ」での怪演
歌手活動と並行して俳優としても精力的に活動していた沢田研二。その役柄はいかにもアイドル的なものから犯罪者まで幅広かったが、本格的に俳優として評価され始めたのは75年のドラマ「悪魔のようなあいつ」(TBS系)の可門良を演じてからだろう。

可門良は、三億円事件の犯人で、逃亡中、クラブ歌手をしながら時効まで身を潜めている物憂げな美青年。エロスあり、バイオレンスありで、特に元刑事のクラブ店主を演じた俳優の藤竜也との、男性同士の性的関係を匂わせる迫真の演技は、当時の少年少女たちに大きなインパクトを与えた。
阿久悠との出会い
沢田研二が歌った主題歌「時の過ぎゆくままに」もセールス100万枚に届こうかという大ヒット。男女の退廃的な情愛を歌ったこの名曲は、演出の久世光彦がドラマ原作者だった阿久悠に作詞を依頼したもので、曲はコンペの結果、井上堯之バンドのメンバーだった大野克夫が担当した。

この後、沢田の全盛期を担った「阿久・大野コンビ」の誕生である。
阿久はコピーライター、放送作家を経て1965年に作詞家デビュー。この頃までに尾崎紀世彦「また逢う日まで」(71年)やフィンガー5「恋のダイヤル6700」(73年)など大ヒットを手がけ、まさに油の乗った時期を迎えていた。
これまでの沢田の楽曲は線が細く耽美な世界観のものが主流。良くも悪くも癖の強い阿久悠節に切り替えることは冒険だったに違いない。
結果的にこの後77年から79年にかけての海外版を除く9枚のシングルは全て阿久・大野コンビが作詞作曲を担当。いずれも記録的なヒットをおさめることとなったのである。