結婚と二度の暴力事件

 話が前後するが、75年から76年にかけては沢田研二にとってプライベート面で激動の時期だった。75年6月、ザ・ピーナッツの伊藤エミと結婚。これは当時の歌手としては珍しく、ファンにも祝福された幸せな結婚だった。

 しかし、同年12月、東京駅で出迎えの女性ファンを侮辱した駅職員に頭突きして書類送検。翌年5月にもまたまた新幹線で「イモジュリー」と絡んできた乗客に対し暴行を働いてしまうのだ。今ほどコンプライアンスにうるさい時代ではなかったが、この影響で沢田は1カ月の謹慎。この年の賞レースやNHK紅白歌合戦も全て辞退することになる。

謹慎からの奮起

 ところが、これで意気消沈せず奮起してしまうのが沢田研二の凄いところ。

 一度、三面記事に載った以上もう怖いものはないとばかりに、テレビ番組で歌う際のメイクや演出をド派手路線にシフトするのだ。

 まだまだ「日本男児なら」などという言説がまかり通り、フルメイクをしている男性なんて歌舞伎役者しかいなかった時代に、沢田研二は「さよならをいう気もない」(77年2月)で金色のキャミソールを着たかと思えば、「勝手にしやがれ」(77年5月)では三つ揃えの黄色いスーツでハットを投げ飛ばし、「憎みきれないろくでない」(77年9月)ではカミソリ型ピアスのパンクファッションとやりたい放題。しかもそれを格好よく、どこか高尚にさえ感じられるよう仕立て上げた。

「勝手にしやがれ」撮影/写真映像部・高野楓菜 協力/歌謡曲BAR スポットライト 新橋
「勝手にしやがれ」撮影/写真映像部・高野楓菜 協力/歌謡曲BAR スポットライト 新橋

 阿久の歌詞の世界観からアートディレクターの早川タケジが際どいギリギリの演出を発案し、プロデューサーの加瀬邦彦がそれを面白がって採用し、沢田研二がそれを体現する。

 ここに、これまでの日本の“エンターテイメント”ではなし得なかったアーティスティックなメディアアートが花開いたのだ。この路線は数々の音楽番組が勃興する当時の情勢の中で大いにウケた。1977年末、沢田は「勝手にしやがれ」で念願の第19回日本レコード大賞を受賞。この時の視聴率50.8%は、現在に至るまで破られていない。

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