ある意味、ビートルズに並ぶ存在

 翌78年も沢田にとって絶頂の1年となった。

 当時、沢田研二のマネージャーを務めた森本精人は、78年1月に始まった伝説の音楽番組「ザ・ベストテン」(TBS系)の放送日時が、沢田研二のスケジュールに沿って決まったものだと証言している。それほど沢田研二は当時の音楽番組にとって欠かせない存在だったのだ。

 また本人もその期待によく応えた。唐獅子牡丹の刺青を模したシースルーシャツの上に軍服を羽織り、数十枚の畳を敷き詰めた上で歌った「サムライ」(78年1月)、不良水兵を気どってセーラー服で踊り狂った「ダーリング」(78年5月)、スタジオに雨を降らせ、手に血の付いた包帯を巻いてむせび泣くように歌った「LOVE (抱きしめたい)」(78年9月)……これまでのステージ演出ではあり得なかったような、そして決して欧米のものまねではない独自のジュリーの世界観に日本中がうち震えた。

「サムライ」撮影/写真映像部・高野楓菜 協力/歌謡曲BAR スポットライト 新橋
「サムライ」撮影/写真映像部・高野楓菜 協力/歌謡曲BAR スポットライト 新橋

 矢作俊彦・大友克洋による漫画「気分はもう戦争」(双葉社)にはこの頃の沢田研二の特異な存在感をよく表現した一節がある。

「ジョン・レノンがさー殺されたんだってよー」「俺たちにはまだ沢田研二がいる!」

 当時の日本を生きる若者たちにとって、沢田研二はある意味でビートルズに並ぶ存在だったのだ。(本文中敬称略)

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