釈徹宗氏といえばNHKの「落語でブッダ」でご存じの方も多いだろう。難解な仏教を、笑いの芸能である落語の演目を通して、楽しく説明するというのが「落語でブッダ」であったが、本書はその逆である。お笑いの落語に、今度は仏教の方からアプローチする。
 日本の笑いや芸能の根っこには仏教があるということを本書はさまざまな方向から説く。根っこに宗教があるから、笑いは強力なのだ。

『おくのほそ道』を歩いてたどる旅を、私は引きこもりの人たちとしている。そのためか、引きこもりの人たちの前での話を依頼されることが多い。引きこもりといっても、ひとくくりにはできない。その苦しみは人によって全く違うので、どんなことを話すかは会ってみてから決める。しかし、毎回、最初の方に必ずしていることがある。それは彼らを笑わすことである。苦しみや悲しみは違うが、そこに来る(というか来させられる)多くの人に共通していることは、おそらくこの数日、心から笑ってはいないということだ。だから、まずは笑いを思い出してもらうのだ。

 しかし、彼らを笑わせる効用はそれだけではなかったようだ。本書には、施政者のブレーンとして笑いを提供した御伽衆や御咄衆のことが書かれている。彼らの提供する笑いは「枠組みの転換」をもたらすと著者はいう。彼らはトリックスターとして、場を揺さぶり、相手の枠組みを外し、自分のあり方を見つめなおさせる役割を持つ。そして、「枠組みの転換」によって人は救われもするという。ナチスの強制収容所の過酷な状況で生き抜いた者は、頑強な身体や強靭な精神を持つものではなく、ジョークで笑い合うような人であったというフランクルの話も紹介される。笑いによる「枠組みの転換」はかくも強力なのである。

 これは芸能の始原ともいわれるアメノウズメの舞を思い出させる。天照大神が岩戸に隠れると世界は暗闇になった。能を大成した世阿弥は、その状態を「言語を絶して、心行所滅」と表現した。あらゆる感覚器官が止まり、時間も空間も一時的に消滅した状態だ。そんな時空間の暗闇の中でアメノウズメが謡い舞う。彼女は神霊を招く聖なる植物を身につけて、自身の胸や性器を強調して舞う。

 すると神々は咲(わら)う。「わらう」は「割る」である。「咲」という漢字は「さく」とも読むが、「さく」は「裂く」でもある。蕾を裂いて花が咲くから「咲」だ。真の闇という閉塞状況を「割り」、そして「裂く」ものは「笑い」なのだ。

 アメノウズメの舞は、神々の笑いを誘発し、そしてその笑いによって闇に裂け目が生じて光が差した。引きこもりの人たちや古代の神々だけでなく、私たちもときどきがんじがらめにされる、どうしようもできない閉塞状態を打ち破り、そして未来を開くものは「笑いの芸能」なのである。それは、「その場が渾然一体となる境地を樹立する喜び」であり、「その場に身をおく者たちすべてが感応道交する、それはまさに芸能が生み出す宗教性の領域」なのだ。

 そんな笑いの芸能の発生と展開を、アメノウズメの舞に代表されるシャーマニズムやアニミズム、マナイズムという大昔の原始宗教から本書は説くが、それが現代の落語や浪曲などの語り芸になるには仏教の説法が必要であったと、これまた大昔のお釈迦様の説法から説き始める。そして、なんと全5章のうちの最初の3章半ほどは、仏教をベースにした日本の芸能史にそのページを割いているのだ。

 あまりの面白さに一気に読んでしまったが、よく版元が許したものだとあとで思った。この3章半は玄人好みである。著者の語り口に乗せられて、誰でもが面白くは読むであろう。だが、ここに書かれていることは芸能を真摯に探求する玄人に向けて書かれているに違いない。そして、これほど広く、そして深く書かれた芸能史は類書がない。芸能従事者として、まことにありがたいかぎりである。

 さて、本書で何度も繰り返されることに「凝縮と拡散」がある。宗教は「凝縮していく方向性」を持つ。これは宗教だけではない。政治にしろ、経済にしろ、ぐんぐん進んでいくためには「この道を行く」という凝縮性が必要だ。しかし、それは同時に誤った偏執性をも生む。危険なのだ。それを解体するのが芸能の「拡散する機能」だ。狂言には、能を完全にパロディにした作品がある。能の六条御息所の生霊が狂言では茸の精霊になったりする。深刻な能を演じたあとに、それを狂言で笑う。凝縮と拡散という番(つがい)で演じるから「番組」という。

 日本の宗教には、己れの偏執性を笑い飛ばす芸能を受け入れる懐の深さがあった。宗教や政治が、その凝縮性を拡散する機能である「笑い」を受け入れなくなったとき、世界は危ない方向に向かうのであろう。