
昨年、芸能生活50周年を迎えた関根勤さん(71)。順風満帆な芸能生活を送ってきたように見えるが、デビュー後の10年ほどは必死にもがいていたそう。これまでの経験や、師匠筋にあたる萩本欽一さんから学んだことなどを聞いた。
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「普通の人なんだ」と認知されて…
――芸能生活は50年を超えました。振り返っていかがですか。
早かったですね。デビューしてすぐに表舞台に出てしまったものですから、もう必死でしたね。「欽ちゃんのどこまでやるの!」(テレビ朝日系〈当初NET系〉)で、一緒にライブハウスで下積みをした小堺(一機)君とクロ子とグレ子役で出ることになったときも、全力だったかな。
1985年に32歳で「笑っていいとも!」(フジテレビ系)のレギュラーになり、35歳のときに演劇集団「カンコンキンシアター」を旗揚げした頃から、楽しくなってきました。それまでは、「結果を残さなきゃ!」というプレッシャーがあって、「生き残っていかなければいけない」というサバイバル感があったんです。
――次第に変わっていったんですね。
デビューして間もない頃に出演した「カックラキン大放送!!」(日本テレビ系)では、「カマキリ拳法の使い手」という殺し屋役を演じていたので、地の僕が出てないんです。気持ち悪がられて、当時の視聴者は僕のことが怖かったらしい。それでお仕事のオファーも全然なかったんです。
でも「欽どこ」に入ったときは、小堺君と前説もしていました。番組が始まる前に2人で普通の会話をして、役を演じるわけではなかったんです。小堺君が横にいることで、僕のぬめり、くどさが緩和され、さらに、3人姉妹を演じる、かわいらしい「わらべ」がいる、欽ちゃんファミリーに入ったことで、僕自身は変わってないのに、世間の見る目が変わってきたんです。その辺から楽しくなってきたのかな。
――芸能人にとって「世間のイメージ」の影響は大きいということですね。
イメージって、包装紙みたいなものなんですよ。“ドクロの包装紙”から欽ちゃんファミリーという“花柄の包装紙”に変わると、全然イメージが違うんです。
「笑っていいとも!」でも、タモリさんや出演者と普通のトークをすることで、「この人はカマキリ拳法の殺し屋を演じていたけど、私生活では結婚をして子どももいる、普通の人なんだ」と認知されるようになり、どんどん新しいお仕事の話が来るようになりました。