「本との出会い」は、新しい知識や価値観との出会い、そして人生を豊かにするきっかけとなる、素晴らしい経験(撮影 写真映像部・松永卓也)
「本との出会い」は、新しい知識や価値観との出会い、そして人生を豊かにするきっかけとなる、素晴らしい経験(撮影 写真映像部・松永卓也)
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 各界の著名人が気になる本を紹介する連載「読まずにはいられない」。今回は政治学者の苅部直さんが、『江藤淳と加藤典洋 戦後史を歩きなおす』(與那覇潤著)を取り上げる。AERA 2025年8月11日-8月18日合併号より。

【写真】太宰治から村上龍、春樹まで戦後文学史の再探訪を楽しめる1冊

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 この本の副題は「戦後史を歩きなおす」。たしかに、江藤淳と加藤典洋、二人の大物批評家を中心にすえて、太宰治、柴田翔、庄司薫、村上龍、村上春樹といった作家たちについて論じ、民主主義論や平和論の文脈を再考する。そんな戦後文学史の再探訪としても楽しめる本である。

 しかし同時に本書の全体に流れているのは、「歴史」、より正確には「歴史家」に対する痛烈な批判にほかならない。〈いま大学に「歴史家」はほとんどいない。いるのは古文書をジャンク債のように運用して、正直な人のお金をかすめとる「史料屋」くらいのものだ〉。これは単に学者が堕落したという現象にとどまらず、精神史的な変化がその背後に横たわっている。たとえば戦後八十年とか、二十世紀といった長い年数にわたる経験を整理する物語を、日本社会に生きる人々が共有し、モラルの糧とする。その営みが、現代においてはすでに不可能になった。與那覇潤はそう説いている。

『江藤淳と加藤典洋 戦後史を歩きなおす』與那覇 潤著(2090円〈税込み〉/文藝春秋)太宰治から村上龍、春樹まで、戦後80年間の日本人の魂の遍歴を江藤淳と加藤典洋とともに、小林秀雄賞の歴史家がたどる(撮影/写真映像部・和仁貢介)
『江藤淳と加藤典洋 戦後史を歩きなおす』與那覇 潤著(2090円〈税込み〉/文藝春秋)太宰治から村上龍、春樹まで、戦後80年間の日本人の魂の遍歴を江藤淳と加藤典洋とともに、小林秀雄賞の歴史家がたどる(撮影/写真映像部・和仁貢介)

 自己と社会全体、国家の運命をつなぐ対応関係がもはや見えなくなった。與那覇によれば、そうした声は一九七〇年代から多く発せられるようになるが、この状況が占領軍の強制に基づく民主化という「ねじれ」から続くものであったことを、太宰治の作品がすでに示していた。この「ねじれ」と、対応関係の不在をめぐって真剣に考え、議論を交錯させたのが、江藤と加藤という二人の批評家だった。その対決とすれ違いを描く筆致はスリリングで、本書の要と呼ぶべき部分である。

 しかし與那覇は最後に、もう一度歴史に立ち戻ってゆく。世に横行する、特定の政治主張のための歴史のつまみ食いには背をむけて、過去から遺されたテクストの言葉に向き合い、その作者と語り合うようにして思考を続けること。その作業が、大きな「歴史」の共有が不可能になったこの時代に、さまざまな他者との共存を支える可能性に賭けるのである。その問題意識を念頭に置いて本書を読めば、戦後という時代をめぐる鮮やかな歴史地図が、頭のなかに広がることだろう。

AERA 2025年8月11日-8月18日合併号

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