炭治郎たちの鬼殺隊入隊試験「最終選別」のエピソードによると、かなり長い期間、鬼は人喰いをしなくても生き永らえることができるようである。鬼同士は互いに仲良くはないよう無惨からコントロールされていることもあり、鬼同士が戦うことに無惨は口を挟むことはない。そして、「鬼は共食いする」(1巻・第7話)ことを考慮しても、極限まで「人喰い」の回数を減らすことは可能なはずだ。

 炭治郎が戦った「鼓の鬼」という鬼は、「以前程の量を(=人を喰える量、の意味)受けつけなくなってくるのだ」(3巻・第24話)と述べていたことがあり、無惨が「もう喰えないのか?」と怒るシーンがあった。

 これらのエピソードを考慮すると、やはり半ば義務のように、それでも嬉々として「人喰い」を、それも女性を中心に、数をこなしている童磨は捕食される側の人間から見ると恐ろしく、不気味である。

「人の味」美味しさへの言及

 童磨は無限城の決戦において、作戦を周到に立てている様子がうかがえる。対峙した鬼殺隊に恐怖心を植えつけ、時に挑発し、確実な勝機を見極めようとしていた。これは、「上弦の弐の鬼」としての童磨の誠心なのであろう。

「いやあ それにしても今日は良い夜だなぁ

次から次に

上等な御馳走がやってくる」

(童磨/17巻・第143話「怒り」)

 御馳走というのは、特別な“食事”、豪華な“食事”、なのだ。そして、決定的なセリフがこれである。

「若い女の子は だいたい美味しいからいいよ何でも!」

(童磨/18巻・第157話「舞い戻る魂」)

 「人の味」を「美味しい」という童磨に、教祖としての正義はあると言えるのか。しかし、それでも童磨は「食べて“あげる”こと=救済」として、その救済が「高みへと導く」ことなのだと主張する。つまり、彼にとって、この現世における悲しみや恐怖に満ちた生は、人間にとっての「不幸」なのだ。

 喰われることによる鬼との一体化、感情のない自分との一体化こそが、彼が考える「救い」なのだとわかる。ならば、童磨が生きてきた人としての半生は、不幸に満ちたものだったのではないか。

 優しい口調で喋る、恐ろしい鬼・童磨。彼の不幸を救済するのは誰なのか。「劇場版『鬼滅の刃』無限城編」で見届けたい。

《拙著『鬼滅月想譚』(7月18日発売)では、童磨の“特別な人”になった、蟲柱・胡蝶しのぶとの戦闘の意味についても詳述している》

鬼滅月想譚 『鬼滅の刃』無限城戦の宿命論
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