
この「多層的な自己」こそ、平野啓一郎作品で一貫して描かれているテーマである。平野さんが繰り返し提唱する「分人主義(ぶんじんしゅぎ)」という思想は、「人間は状況によって複数の人格=“分人”を使い分けながら生きている」という考え方だ。従来の「たった一つの本当の自分を探す」という自己認識に対し、新たな視点を与える。
僕は、この分人主義が今の日本社会に必要だと感じている。日本に漂う閉塞感がさまざまな「分断」を生んでいる。若者対高齢者、男性対女性、国民対官僚などだ。僕自身も経済コラムで官僚機構を批判することはあるが、官僚として働く高校時代の同級生の人格まで否定しているわけではない。批判と個人は「それはそれ、これはこれ」と分けて考えられる。
分人を一つしか持たないと、「官僚=悪」「老人=敵」といった単純な対立に陥りやすい。21世紀に入って、西洋とイスラムという文明間の対立が激化している背景にも、「唯一のアイデンティティーに縛られている」という問題があると、ノーベル経済学賞受賞者のアマルティア・センは指摘している。
分人主義を理解すれば、私たちは二項対立を乗り越え、他者への共感や理解を深めることができる。3日に参議院選挙が公示されたが、「敵か味方か」ではなく、「それぞれの立場の多様性を理解し合えるか」を基準に社会を考えていきたい。
※AERA 2025年7月14日号
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