1951年12月に富山市で生まれ、父は電力会社勤務、母は専業主婦だったが、7歳のときに両親が離婚。母は自宅脇に洋装学校を開き、理事長兼校長として経営した。
女性が銀行の融資を受けるのは至難だった時代、母は何度も通い、開業資金500万円を借りた。幾多の問題を乗り越えるため、考え抜いていた。並大抵ではない努力を感じ、『源流』が流れ出す。
中学校へ進むとき、7歳上の姉が東京の美術大学へ進んだため、母は洋装学校を売却して東京へ移ることを決断。姉と杉並区で下宿し、母も遅れてやってきて、私鉄の駅前に注文服の店を開いた。都立杉並高校から関東学院大学工学部建築学科へ進んだのは、建築デザインをやりたかったからだ。でも、授業は苦手な数学の世界ばかりで、2年生で経済学部経営学科へ転籍。流通業を学んだ。
このころから、山好きの人に紹介された立山連峰の室堂平にある山小屋で、アルバイトを続けた。山小屋は冬は閉じ、毎年4月15日に開く。1日に300人から400人の宿泊客に対し、働くのは30人から40人。詳しくは次回に触れるが、ここでも工夫を重ねてリーダー格となり、組織運営の経験を積む。
77年4月にすかいらーくへ入社。武蔵野市の関前店のキッチンへ配属され、1年半いてチーフとなる。都内の別の店へ移り、3年目に「すかいらーく」の関西進出でコックに選ばれ、さらに冒頭の「イエスタデイ神戸店」へいく。
当時は「店を出せば出すだけ利益が出る」という神話があり、「イエスタデイ」も首都圏中心に20店出したが、売上高は「すかいらーく」と同水準でも利益率は半分。高級な食材を使い、コストが高かったためだ。事業部は「すかいらーく並みの利益率へ上げろ」と指示し、手づくり料理は減って「すかいらーく」と同質化。客は離れていく。
「イエスタデイの客はどういう客か」「なぜきてくれているか」といったマーケティングの基本から、外れていた。
社員食堂で飲み放題退社して飲みにいく出向仲間からヒント
そういったことを口にしていたら、87年12月に新日本製鉄(現・日本製鉄)と折半出資で設立し、千葉市の幕張メッセのカフェテリアや幕張テクノガーデンのビルに社員食堂を開業するニラックスへ出向した。取締役営業本部長という肩書は付いていたが「外されたな」と思う。