作家・沢木耕太郎さん、初の時代小説『暦のしずく』。主人公は江戸中期の講釈師、馬場文耕。
同時代の講釈師である深井志道軒と比べて、資料の少ない彼の物語を紡ぐことに、沢木さんは苦慮していた。
突破口とはなったのは、馬場文耕にまつわる一人の女性、お六だった。芸者・お六に関する謎とは? その謎から浮かび上がる馬場文耕の思いとは?
『一冊の本』の巻頭随筆で、沢木さんが『暦のしずく』の出発点を語る。
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彼女の年齢
江戸中期の講釈師である馬場文耕を主人公にして時代小説を書こうとしたとき、あまりにも資料が少ないことに愕然とした。
その驚きは、同時代の講釈師である深井志道軒と比べたとき、さらに大きなものになる。
志道軒については、平賀源内を筆頭にさまざまな人物が文章にしているし、奥村政信をはじめとする何人かの絵師がその姿を描き残していたりもする。ところが、文耕については、獄門にかけられたというのに、絵はおろか、同時代の書き手による短い印象記すらも残されていないのだ。
唯一、残されているのは、文耕が書いた気質物をはじめとする「読物」である。文耕は、講釈師であると同時に、著述家でもあったからだ。
ところで。
現存する文耕の著作は、そのすべてが刊本ではなく写本、筆によって写されたものである。
残念なことに、私は江戸時代の書き文字を読みこなすことができない。そこで、翻刻、つまり活字化されたものに頼らざるをえないのだが、幸い文耕作品の多くが活字化されている。
長いものは「叢書江戸文庫」の一巻として『馬場文耕集』にまとめて収録されているが、それ以外にも、『燕石十種』や『未刊随筆百種』などの叢書に単発的にではあるが収載されている。
私はそうしたものをコピーして一冊にまとめ、かりに『馬場文耕集第二』と題した表紙をつけて『馬場文耕集』の横に並べるようになった。
そして、暇な折りに、いったいどのようにストーリーを構築したらよいのかを考えながら、その二冊を取り出しては、読む、というより、眺めることを続けていた。