もし、文耕の記述に従ってお六の年譜を作ると、次のようになるはずである。

 たとえば、十九歳の一月か二月、旧暦における春に最初の怪動に引っ掛かったとする。

 この当時は、「深川に四年」という場合の四年は足掛け四年だったろうから、文耕が『百化物』で書いたとき、お六は二十七歳だったことになるのだ。少なくとも、「疑いもなく三十二歳」にはとうていなっていない。

 どうして、文耕は、そのような誤りを犯したのか。

 考えていくうちに、それはうっかり間違ったのではなく、意図して間違えたのではないかと思うに至った。お六にあえて余分な齢を取らせたのだ、と。

 吉原では、通常、遊女たちは二十七歳で年季が明けることになっていた。つまり定年が二十七歳だったのだ。従って、怪動で捕らえる私娼たちも、吉原で働かせるためには二十七歳までという一応の決まりがあったらしい。つまり二十七歳のお六は、ギリギリ、まだ捕まる可能性があった。

 文耕が『百化物』で、お六の年齢を三十二歳と大きくごまかしたのも、お六が三たび怪動に引っ掛からないようにとの配慮からだったのではないだろうか。もう、お六は吉原で勤めができる年齢ではないのだよ、と人々に告知するために。

 では、文耕は、どうしてそんなことをしなくてはならなかったのか。

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