
室町末期の覇者・細川政元は、足利将軍追放のクーデターを起こし、信長よりも先に延暦寺の焼き討ちを実行するなど、破天荒な行動で戦国時代の扉を開いた。
彼は戦国三大愚将の一人に数えられたが、細川氏研究の第一人者である古野貢教授は、著書「オカルト武将・細川政元」の中で、「政元に対する評価は見直されるべき」と指摘している。
新刊『オカルト武将・細川政元 ーー室町を戦国に変えた「ポスト応仁の乱の覇者」』から一部抜粋して紹介する。
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「はじめに」でご紹介したように、注目すべきポイントがいろいろある細川政元ですが、彼の名前でインターネット検索をかけてみますと、少し気になるワードが引っかかります。
「戦国三愚人(戦国三大愚人)」です。つまり、政元は戦国時代の愚か者三人のうちの一人だ、というのです。他の二人は中国地方の名門大名・大内義隆と、「海道一(東海道一)の弓取り」と呼ばれた今川義元の跡継ぎである今川氏真です。
どうして政元はこんな評価を受けてしまうのでしょうか。ひとつには、従来の制度を次々と覆していく彼の革新性に周囲がついていけなかったということが考えられます。
ゲームチェンジャーという言葉があります。ゲームの仕組みそのものを変えてしまうような役割を果たした人、を意味します。中世日本を破壊し、戦国時代の幕を開けたゲームチェンジャーといえば織田信長だ、と従来から言われてきました。しかし、革命的な人物だと思われてきた信長に対する評価は最近かなり落ち着いてきて、むしろ意外に保守的な志向性を持った人物であった、とみなされるようになってきています。
その上で、信長が活躍できた前提として、細川氏に仕えた三好長慶こそが信長に先立つ革命的な動きをした人物であるという評価がなされるようになってきました。確かに長慶は時代を先取りするような社会構造の変容をある程度実現させました。室町幕府に直接由来する公的なポジションにいなかった人物が政治的実権を握ったのは、その通りなのでしょう。
しかし、やっていることからすれば、長慶よりも十数年前に活躍した人物である政元の方がよほど革新的であり、当時の人々からすれば、さぞとんでもないことをやっていると捉えられたのではないかと思ってしまいます。