
室町末期の覇者として実権を握った細川政元は、戦国時代の引き金を引いたキーパーソンでありながら、妖術や「空中飛行」の修行に没頭した、史上稀に見る権力者だ。
彼は「足利将軍を追放するクーデター」や「比叡山焼き討ち」など、常識を覆す行動で、戦国時代の引き金を引いた人物といえる。
長年細川氏の研究をしている武庫川女子大学の古野貢教授は、著書「オカルト武将・細川政元」の中で、「その大胆な行動は、織田信長をはじめ戦国大名たちの先行モデルになった」と指摘している。注目すべき行動の一つが、政元の定めた独自の法案「式条」だ。
新刊「『オカルト武将・細川政元 ――室町を戦国に変えた「ポスト応仁の乱の覇者」』(朝日新書)」から一部を抜粋して解説する。
* * *
細川政元の先駆け的な行動のひとつとして、政元が作った「式条」を紹介しましょう。十六世紀の前半から中盤にかけて全国各地にいわゆる戦国大名が出現してくるわけですが、では何をもって戦国大名と定義するかは、なかなか難しい問題です。
指標はいろいろありますが、その一つとして「従来から存在する法令とは別に独自の法を作っているか」があります。このような例が今川氏(『今川仮名目録』)や武田氏(『甲州法度之次第』)によって作られたのですが、実はそのオリジナルとも考えられるものを作ったのが政元なのです。
政元が策定した式条を見てみましょう。一五〇一年(文亀元)六月、政元は「式条」を定めます。全文は政元の養子となる澄之の父、九条政基が記した『政基公旅引付』(文亀元年八月二十二日条)に引用されています。
細川家のことは澄之に仰せ付け、安富元家と薬師寺元長が諸公事(政治や裁判その他のこと)以下のことについて沙汰するよう定めています。定められている五カ条は、次の通りです。各条目には詳しい内容が書かれていますが、ここでは割愛します。
判右京兆之判也
被定置条々
一 喧嘩事(中略)付相撲停止事
一 盗人事(中略)付ばくち停止事
一 諸取沙汰事(中略)
一 強入部事(中略)
一 新関事(中略)
右条々堅被禁制畢、自今以後守此旨、聊不可有越度者也、所被定置如件
文亀元年六月 日
あげられている五項目(付けたりを加えると七項目)は、実は取り立てて新規な内容というわけではありません。むしろ室町幕府法にも頻出する項目です。喧嘩や盗人、諸取沙汰の停止など一般的な禁止事項を配して、式条が機能する領域の安全保障を謳ったうえで、強入部(強制的に領域内に侵入すること)や新たに関所を立てることを禁じています。
不十分ではあるものの、自らの意思で新たな法体系・法観念を提示しているのです。幕府内での高い立場にいる政元からすれば、このあたりが限界だったかもしれません。しかしこの志向性が、のちの戦国大名による領域支配の下敷きとなったのではないかと考えられます。
具体的な内容自体はそれほど大したものではなく、幕府法の法体系の考え方から独立しきっているわけではありませんが、ここで大事なことは、何らかの問題が起こったときに、「この決着は幕府に委ねず、自分が出した法律で処理します」という態度をとることなのです。
日本国という大きな領域の中に、「細川氏が管理している摂津国や和泉国など畿内の内ではこの法律を有効とします」というような地域を作ってしまうのは、後世の戦国大名たちの思想そのものと言えます。十五世紀の後半から十六世紀のはじまりにかけて活躍した政元が、十六世紀の中頃以降登場した戦国大名たちよりもかなり先行して同じ考えを示していたことは注目すべきでしょう。
やがて政元のあり方をひとつの先行モデルとして、三好長慶や織田信長といった人々が「政元が目指したが目指しきれなかったものを達成するためにはどうしたらいいのか」を埋めていく形で独自の権力を作ろうとしていきます。それが十六世紀に通底する政治や権力のあり方なのだろうと思います。
《『オカルト武将・細川政元』では、政元が織田信長よりも先に実行した「延暦寺焼き討ち」、応仁の乱以降の権力抗争、将軍追放のクーデターにおける日野富子との交渉など、「室町と戦国」をつなぐ乱世を解説しています》
