※写真はイメージです(gettyimages)
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 日本史にのめり込んだ人でない限り、「好きな時代」として室町時代を挙げる人は、あまり多くはないだろう。特に応仁の乱が終結してから織田信長が上洛するまでの百年ほどは、教科書でも飛ばされがちで、丁寧に扱われてこなかった。

 その空白の時代を埋める存在として、細川氏研究の第一人者である古野貢教授は、「細川政元」の存在を挙げる。将軍追放のクーデターを起こし、比叡山焼き討ちを実行するなど、常識にとらわれない破天荒な行動は、ある意味で信長のロールモデルになったと言える。

 時代の転換点に立った政元の重要性とは? 新刊『オカルト武将・細川政元 ーー室町を戦国に変えた「ポスト応仁の乱の覇者」』から一部抜粋して紹介する。

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マイナーな時代としての室町時代

 このように政元は時代を変えたキーマン、あるいはゲームチェンジャー的存在として評価できるわけですが、しかしその一方で現代において知名度が高いとは言えないのは最初に紹介したとおりです。同じくゲームチェンジャーである信長と比べればその差は歴然です。何が原因なのでしょうか。

 ひとつには、そもそも室町時代(南北朝時代から応仁の乱、明応の政変辺りまで)という時代自体が、日本史における研究として深められるのが遅かったということが言えると思います。

 教科書などを見ても「鎌倉時代が終了した」「室町幕府が成立した」「義満・義教などの将軍が活躍した」「嘉吉の乱が発生した」「応仁の乱が始まった」といったところで室町時代の政治的な記述はぶっつりと終わってしまいます。

 その次は「室町時代の文化として、北山文化・東山文化が存在した」となり、すぐに戦国時代の詳しい説明が始まり、織豊期を経て江戸時代に繋がります。

 ここには応仁の乱までの動向も、応仁の乱以降の展開も欠落してしまっているのです。その間には日本史のその後に大きな影響を与える事柄があったはずなのに、です。

 かつては「室町幕府は応仁の乱で滅んだ」とも言われていました。しかし、もちろんそんな事があるはずがありません。応仁の乱は文明九年(一四七七)に終わるわけですが、始まったのは応仁元年(一四六七、正確には文正二年)です。織田信長が義昭を奉じて京都へ上ったのが永禄十一年(一五六八)ですから、応仁の乱開始から百年後になります。その百年間、幕府はずっと存在し、活動していました。

 さらには、信長は幕府と将軍が必要で存在する意味がある、と考えたから義昭を奉じて京都へ上ったのでしょう。滅んでいたのだとしたら「では、信長はなんのために義昭とともに上洛してきたのか?」ということになり、説明がつかなくなります。ですから室町時代、特に後半の百年間については、あらためてきちんと評価をしていく必要があります。

 政元が死んだのち、しばらくすると細川氏が分裂してしまい、十六世紀前半以降の畿内は非常に混乱します。この時代を描いた軍記物は多く存在し、それらによって従来あまり埋まっていなかった歴史の流れがストーリーとしてある程度説明されています。しかし、そのストーリーはあくまで軍記物から生まれたものですからどうしても単眼的で、批評や評価をされないまま通説になってしまっているところがあります。研究者の立場とすれば、これは良くない傾向であると言わざるを得ません。

 そのような十六世紀の畿内の動乱をもたらした段階にあたる政元のあり方を明確にすることは、フィクションも含まれた歴史像で埋められてしまっている時代の姿を整理することにも繋がっていくのではないかと考えています。

 より具体的に政元のパーソナリティやその事績を掘り下げれば、いわゆる中世から近世、すなわち江戸時代へ向かって時代を変えていく、その一番大きなきっかけが見えてくるはずです。

 十五世紀から十六世紀初頭という政元が生きた時代は、いわゆる近世そのものの始まりとは言えませんが、そちらの方向へ時代の舵を切った、歴史の分岐点にあたります。

 その意味で、この時代は近世(江戸時代)へ向かっていく最初のタイミングや、現代社会に生きる価値観・文化的なあり方を知るためのスタート地点であり、現代を理解する上でのヒントとなるはずです。

 『オカルト武将・細川政元』では、政元が織田信長よりも先に実行した「延暦寺焼き討ち」、将軍追放のクーデターにおける日野富子との交渉など、応仁の乱以降の“激動の時代”を解説しています。

オカルト武将・細川政元 室町を戦国に変えた「ポスト応仁の乱の覇者」 (朝日新書)
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