
日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2025年4月28日号より。
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1957年10月、福島県平市(現・いわき市)で生まれ、父・重信さんと母・元子さんに兄が3人、祖父もいて7人家族。実家は専業農家でコメと野菜をつくり、夏休みに収穫した野菜の袋詰めを手伝い、秋は刈り入れたコメの袋を運んだ。
自分にとってビジネスパーソンとしての『源流』は、両親の生き様だ。父は、農作業だけでなく、地域で事業にも取り組んだ。収穫期にコメを玄米にする「もみすり」で、各農家は田植機や稲刈り機はあっても、もみすり機は持っていない。父は機械を買って請け負った。終わると芋煮会もやった。
常に「何か考えていかないといけない」という企画好きは、自分も父譲り。それが『源流』となって、昭和産業でのM&Aの企画につながった。上場会社の社長、会長になって会社を率いることができたのも、家族のため、近隣農家のために働き続けた父が手本だった。
母は、気持ちがふくよかで、森進一のヒット曲「おふくろさん」そのものだった。寝たきりになった祖父の介護も、脳梗塞で倒れた父の介護でも、愚痴を聞いたことがない。話をちゃんと聞くから、地域の人が集ってきて、一緒に茶を飲んでいた。相談があれば、相手の身になって考える。これも『源流』に加わり、次に触れる子会社の廃業の際、解雇した社員たちの再就職に力を尽くすことに重なる。
雪が降る大寒の日社員らに廃業を通告誰もが不安をみせた
忘れたことがないのが、盛岡市での99年1月20日のことだ。昭和産業の子会社で岩手県南部の一関市に本社を置き、パンや米飯、菓子をつくって地域のスーパーや小売店へ卸していたみつわ食品の社長に就任して4カ月目。「大寒」の日、雪が降る盛岡工場に社員やパートタイムの女性を集めて、通告した。
「皆さんには長年、本当にしっかりやってもらったが、経営努力も足りない部分もあって、残念だが事業を撤退せざるを得ません。盛岡工場を閉鎖します」
5月末で全員解雇を伝えると、「自分たちの将来を、どれだけ支えてくれるのですか」という声が続く。誰もが「くる日がきたな」と思いながらも、退職後に不安をみせた。