昭和産業は1936年の設立で、日本で唯一、小麦と大豆、菜種、トウモロコシの穀物4品を扱い、製粉や製油を手がけてきた。みつわ食品は一関市と盛岡市に工場を持ち、岩手県から宮城県へかけて直売所や営業所を置き、学校給食も提供していた。元は地元資本だったが、経営不振に陥って小麦粉を供給していた昭和産業が子会社化し、最盛期に年商が18億円あった。
だが、交通網や物流網の進化と全国スーパーの進出で大手のパンや菓子が流入し、業績が落ちる。東京本社の課長時代に再生会議へ参加すると、「再生できるか無理か、見極めてきてくれ」と言われた。98年9月1日に着任し、営業拠点と主な取引先を訪ね、なぜ苦境に陥ったのか意見を聞いた。出たのが品質の問題とクレームの多さ。原因は設備更新の遅れもあったが、社員の士気の低さにもあった。昭和産業も海外事業で大きな赤字を抱え、延命はもう難しい。12月、経営会議に廃業と全員解雇の報告を出し、了解を得る。
課題の一つが従業員の再就職で、あっせんに奔走する。社員は120人、パートタイムの従業員を加えると約200人。各地の職業安定所を回り、取引先にも再就職を依頼する。でも、希望した人のうち十数人しか勤め先がみつからない。それでもやれることは精一杯やった、とは思っている。
設備の一部を更新したばかりの一関工場は、新会社をつくって事業を移管することにして、30人の社員とパートやアルバイト32人を再雇用した。新社名は菜花堂。一関市の「市の花」が菜の花で、地元の人たちに親しんでもらって愛される企業になってほしい、との思いで命名した。その後に身売りして、いまは別会社の工場になっている。
お別れパーティーでジーンと胸にきた「あなたは悪くない」
思い出は多々あるが、口にしていない。ただ一点、うれしかったことは言ってきた。99年5月31日、最後の学校給食を届け終えて、盛岡工場の社員とパートの人がホテルでお別れパーティーを開いた。誘われて、廃業を選択して彼らを退職へ追い込んだ詫びを言おうと、赴いた。
挨拶に、その思いを込めた。参加者はシーンとして、硬い表情ばかり。でも、アルコールが入って、時間の経過とともに思い出話で盛り上がる。最後は一人一人と握手もハグもして、みんなが涙を流しながら別れたのを、いまも覚えている。
「社長には、精一杯のことをやってもらいました。あなたが悪いわけではなく、みんなの努力が足りなかった結果がここに至ったのだと思います。気にしないで下さい」──そう声をかけられ、ジーンと胸にきた。このとき心に刻んだのが「二度と社員の解雇をしないで済む昭和産業にする」との誓いだ。