『PLANET WAVES』BOB DYLAN
『PLANET WAVES』BOB DYLAN
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 1968年『ジョン・ウェズリー・ハーディング』発表後のボブ・ディランの歩みを簡単に振り返っておこう。翌69年春には、ジョニー・キャッシュとのデュエットで再録音した《北国の少女》や《レイ・レディ・レイ》を収めた『ナッシュヴィル・スカイライン』、70年夏には、《レット・イット・ビー》や《ブルー・ムーン》など有名曲のカヴァーを含む2枚組『セルフ・ポートレイト』を発表。この時期の彼はほとんどの曲をそれまでとは異なる澄んだ声で歌っているのだが、同じく70年の秋に発表した『ニュー・モーニング』では本来(?)の声に戻り、《イフ・ノット・フォー・ユー》などの名曲を残した。

 ここで、いろいろな意味で60年代にいったん区切りをつけたという意識があったのか、いったんペースを落とし、71年は『グレイテスト・ヒッツ』第2集とシングルの《ジョージ・ジャクソン》のみ。72年はまったくリリースがなかった。71年夏にジョージ・ハリスンが主催した『コンサート・フォー・バングラデシュ』と同年末に行なわれたザ・バンドのコンサートなどに出演してはいるものの(後者を作品化した『ロック・オブ・エイジズ』の完全版にはディランとの共演も収められている)、本人名義のライヴやツアーはまったく行なわれていない。

 そして、1973年。春には、ディランも出演したサム・ペキンパー監督作品『パット・ギャレット&ビリー・ザ・キッド』が公開され、あの《天国の扉》を含むサウンドトラックも手がけた。ベスト盤と映画。《ひょっとすると、まだしばらく本格的な活動はないのかも》と思っていたファンも多かったはずだが、このあとディランは、明確なヴィジョンを描き上げたうえで、新たな一歩を踏み出す。しばらく前にウッドストックからカリフォルニア州マリブに移っていた彼は、そこにザ・バンドのメンバーを呼び寄せ、レコーディングとツアーへの参加を要請したのだ。

 ザ・バンドは、地下室セッションのあと、『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』と『ザ・バンド』で高い評価を獲得し、当時のロック界に揺るぎない地位を築き上げている。しかしその後は、ロビー・ロバートソンとリヴォン・ヘルムの確執なども原因で次第に方向性を見失いつつあったのだが、同年7月のサマー・ジャム・アット・ワトキンス・グレンでオールマンズやデッドとともに数十万人のオーディエンスの前に立ち、なにかを取り戻していた。また同時期、ディランはコロムビアとの契約を終え、すでにイーグルスらを送り出していたアサイラムと契約を交わしている。いろいろな要素が絡みあった、理想的なタイミングでの再合流だったわけである。

 レコーディングは、73年11月、ロサンゼルスのヴィレッジ・レコーダーで行なわれた。プロデューサーに起用されたのは、その名スタジオでエンジニアとして経験を積んでいたロブ・フラボーニ。まだ二十代前半だったはずで、これもまた、ディランらしい決断といえるだろう。

 数年の「空白期間」をへて、ディランのなかにはいくつもの曲、あるいは断片的なアイディアが蓄積されていたものと思われる。わずか数日のセッションで《フォーエヴァー・ヤング》《オン・ア・ナイト・ライク・ディス》《ヘイゼル》など長く聴き継がれることになる名曲を仕上げられていった。意外なことにヴォーカル面ではまったく貢献していないのだが、5人の演奏は力強く、文句なしに素晴らしい。《ゴーイング、ゴーイング・ゴーン》と《ダージ(葬送歌、哀歌)》でのロバートソンのギターは彼自身にとってのベスト・パフォーマンスと呼べるものだろう。

 ジャケットも本人が手がけたアルバム『プラネット・ウェイヴズ』は、1974年1月半ばにリリースされている。その発表を前に、年が明けるとすぐ、ボブ・ディラン&ザ・バンドは北米各地を回る大規模なツアーを開始。新たな、文字どおりの伝説を残したのだった。[次回10/26(水)更新予定]