李琴峰『日本語からの祝福、日本語への祝福』 (朝日新聞出版)
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 言語には使い手たちが長い年月を通して培ってきた世界観が組み込まれていることは前述の通りだが、そうした世界観が現代的な道徳観・倫理観・人権観念にそぐわない場合、それは好ましくない偏見として扱われる。同性愛者を「ストレートではない」とする例はまさにそれである。

 日本語では「海外」という言葉は「国外」とほぼ同じ意味で使われるが、これは島国である日本にとって「海の外」がほぼイコール「国の外」だからだろう(東京から沖縄へ行っても海外旅行にはならない)。また、言語を数える時に「一か国語」「二か国語」というふうに「〜か国語」という助数詞を違和感なく使う人が多いが、よく考えたら、言語と国の境目はほとんどの場合一致しないのだから、本来かなりおかしな表現のはずだ。私が「李さんは何か国語喋しゃべれるの?」と訊きかれた時いつも困るのはそのためである。さしずめ私に話せる言語は、中国語、日本語、台湾語、英語の四言語で、話せるわけではないが少し習ったことのある韓国語も入れれば五言語になるが、これらの言語のうち、少なくとも中国語と台湾語、英語はどこか一つの国の国語であるというわけではない。例えば中国語圏は中国だけではないし、中国に住んでいる人はみな中国語が話せるわけでもない。英語だって、世界中の多くの国で共通語になっている。言語の境界線を国の境界線になぞらえた「〜か国語」という助数詞はかなり無理のある表現と言わざるを得ないが、それが日本語でかくも一般化しているのは、少なくとも近代以降、「日本国の領土」と「日本語が話される土地」の境界線がおおむね一致しているという、言語自体ではなく人間側の事情によるもので、偏った世界観の反映にほかならない。

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言葉に潜む性差