韓が土地を秦に献上して服属の意志を示しながら、それを無視して韓王をいきなり捕縛して国を滅ぼすのは、秦であっても戦国時代の外交の大義に反した。秦始皇本紀始皇二六年の記事には、秦王(始皇帝)みずからが六国を滅ぼした歴史を回顧して正当性を述べるくだりでその大義に言及している。

「異日韓王、地を納れて璽(王の印璽)を效いたし、藩臣と為らんことを請うも、已(すで)にして約に倍(そむ)き、趙、魏と合従して秦に畔(そむ)けば、故に兵を興して之を誅し、其の王を虜にす」とある。

 秦が韓王を捕虜にして国を滅ぼした正当性として、韓王が土地を献上し王の印璽を差し出して藩国になろうと請うたにもかかわらず、約束に背いて趙・魏と合従して秦に背いたことから、秦は兵を動員して韓を罰し、韓王を捕虜にしたという。

 この秦王の話には、矛盾がある。土地を献上したのが始皇一六(前二三一)年のことで、一七年に韓王を捕虜にしたとすると、このわずかな間に韓・趙・魏の合従がなければならない。三国の合従は、始皇六(前二四一)年の韓・魏・趙と衛・楚の五ヶ国の合従を指している。秦王政のときの合従はこれしかない。

「南陽仮守騰」の記述(書籍参照)の下に脱簡があるとしたら、韓側に信義に反する行動があり、騰が関わっていたことが記されている可能性はある。韓側にそのような行動がないまま韓王を捕縛し、韓地を献上させたのであれば、秦王は始皇六年までさかのぼって矛盾する大義をあえて示したことになる。

 韓を攻めたのは、内史の騰という人物である。騰については姓氏がわからず、謎の人物である。

 秦の本土の畿内を治める内史の高官が、なぜ韓を攻めたのであろうか。韓を滅ぼすという大役を、なぜ内史に任せたのだろうか。

 他の例だと蒙恬(もうてん)将軍も、のちに斉を攻撃して統一すると内史となり、三〇万の兵士を率いて匈奴と戦った。内史の騰も、将軍を兼任して内史の隣国韓を攻めたのであろう。

 騰は、韓滅亡をめぐる重要な人物であったと考えられる。かれの行動が、秦が六国を服属ではなく滅亡させていく方向に軌道修正させた可能性はあるだろう。

《朝日新書『始皇帝の戦争と将軍たち』では、魏・趙・斉など「六国」を滅ぼすまでの経緯を解説。羌瘣(きょうかい)や王賁(おうほん)や李牧(りぼく)など、将軍たちの史実における活躍も詳述している》

始皇帝の戦争と将軍たち 秦の中華統一を支えた近臣軍団 (朝日新書)
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