映画『キングダム大将軍の帰還』やドラマ『始皇帝 天下統一』など、始皇帝をモデルにした映像作品が人気を博している。いずれも秦の統一までの軌跡を描いているが、六国の一つ「韓」を滅ぼした将軍は誰だったのだろうか。
映画『キングダム』の中国史監修を務めた学習院大学名誉教授・鶴間和幸さんは、著書『始皇帝の戦争と将軍たち』の中で、韓の滅亡をめぐる謎について言及している。新刊『始皇帝の戦争と将軍たち』(朝日新書)から一部抜粋して解説する。
【『キングダム』よりも先の史実に触れています。ネタバレにご注意ください】
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始皇一七(紀元前二三〇)年、内史の騰(とう)が韓を攻め、韓王の安を捕らえ、その土地を献上させた。
滅ぼす直前、韓を取り巻く状況は、前出の戦国初期の地図と比較すると大きく変わった。この時期までに韓は縮小し、すでに一郡程度の小さな国にすぎなくなっていた。北は三川郡と東郡、南は南陽郡といった秦の占領郡に包囲されており、蘇秦がかつて韓の宣恵王に述べたときのような九百余里四方、帯甲数十万の国ではなくなっていたのである。
秦はこの小さな韓の国を、朝貢国にするのではなく滅ぼすという方針に転換した。これが、その後一〇年の戦略の転換点となった。この時期から統一までの戦争を、十年戦争とぶことにする。
秦はなぜ、六国のうち最初に韓を滅ぼすことになったのか。秦と国境を接していた隣国のなかで韓がもっとも小国化していたことが、最初に滅ぼす要因となったのであろう。
近年出土の前漢初期の年代記『歳記』によれば、始皇一六(前二三一)年に「破韓得其王入呉房(韓を破り、其の王を得て呉房に入らしむ)」と書かれ、『史記』には見えない捕縛した韓王の行き先まで記されていた。
韓王の行き先である呉房(ごぼう)は、楚の上蔡(じょうさい)付近に位置する。年代は、『史記』とは一年くらい違う。そして一七年に「五月韓王来、韓入地於秦(韓王来たりて、韓、地を秦に入る)」と書かれ、捕縛された韓王が領土を秦に納めたとある。これも『史記』にない事実である。