「あいさつしない自由」がSNSで注目され、若者の間で共感が広がった。早稲田大学系属早稲田実業学校初等部教諭の岸圭介さんは「SNSで誰とでもやりとりできる今、あいさつの必要性を感じられなくなっている。若い世代は“特定の人にするもの”だと考え、あいさつの本当の意味が忘れられてしまっている」という――。
※本稿は、岸圭介『学力は「ごめんなさい」にあらわれる』(筑摩書房)の一部を再編集したものです。
若い世代に広まる「あいさつ不要論」
「なんでわざわざ知らない人に、あいさつをしなければいけないのですか」
昨今では、新入社員から真顔でこんな質問をされると耳にします。若い世代を中心に広まっているとされる、いわゆる「あいさつ不要論」です。
親しい間柄でもないのに、なぜ頭を下げたり、わざわざ自分からコミュニケーションを図ったりしなければいけないのか納得がいかないのでしょう。
上司や先輩からあいさつを強要されるのに反発をする向きもあるようです。こうした風潮は、コロナ禍がより促進させたこともあるでしょう。人と人とが直接的に関わらない状況下で学んだ結果かもしれません。
さらに言えば、幼少期から積み上げてきた「話すこと」に対する学びの成果だとも思うのです。幼少期に「おはようございます」と自分から話しかける習慣を築いている人もいます。
その人にとっては、あいさつをするのは、もはや疑う余地のないことかもしれません。
中・高生世代であれば、この新入社員に共感できるでしょうか。面倒なことはできることなら避けたいという思いはありますよね。ましてやSNSで誰とでも気軽にやりとりができる時代です。あいさつに対する必要感を感じることも少ないでしょう。
でも、ひと昔前は「あいさつをすること」は世間の常識でした。
根本にあるのは「意味と価値のずれ」
「最近の若者は礼儀がなっていない」と指摘されるときの代表格は「あいさつもできない!」だったのです。あいさつは数ある礼儀作法のなかでも、特に優先するべきふるまいだったといえます。
今でも上司や先輩から「声が小さいよ!」、「自分から頭を下げなさい!」という指導が入ることがあります。
ネガティブな経験をしている人々にとって、「あいさつ」とは、「話したくもない人に向けた形ばかりの苦痛なもの」という意味が染みついていることでしょう。
しかも、勇気を出してあいさつをしたものの、まったく返ってこない人もいないわけではありません。そうなると、なんだか自分だけが損したように感じられるものです。
「あいさつなんて無駄」と主張する新入社員と、上司や先輩とがぎくしゃくする構図。その根本にあるのは、お互いが感じている「あいさつ」ということばの意味と価値のずれです。
あいさつは「必ずするもの↔自分の意志でするもの」、「誰にでもするもの↔特定の人にするもの」という根本的な考え方の違いがあります。
さて、皆さんはあいさつが必要だと考えますか。もし子どもに「あいさつはなぜしなければならないの?」と澄んだ瞳で質問をされたとしたら、どのように答えるでしょうか。