英国在住の作家・コラムニスト、ブレイディみかこさんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、生活者の視点から切り込みます。
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英国のA&E(Accident & Emergency)に行った。つまり救急医療科だ。40度を超える熱と嘔吐が続いていたので幸運にも私は個室に隔離された。
個室とはいえ、病室ではなく、医師の数が足りていた頃は診察に使われていただろう部屋だ。3時間待たされ、ようやく医師が来て採血が行われ、また2時間待たされて点滴を打たれ、それから4時間後に2本目の点滴が始まり、入院が決まった。
私が個室で「忘れられているのでは」という不安と闘っている間、扉の外ではそれどころではない世界が展開されていた。
入院病棟に連れて行かれる時に私はそれを見た。まず扉を開けたところに水たまりがあり、紙タオルが数枚突っ込まれていた。誰かが失禁したのだ。でも、清掃する人がいないから誰も踏まないように紙タオルを突っ込む。待合室には患者が溢れ、多くは床の上に座り込んだり、寝転がったりし、吐瀉物の中に紙タオルが数枚突っ込まれているのも数カ所見た。待合室から溢れた患者はずらっと廊下に座り込み、列はエレベーターの前まで続いていた。頭にこびりついているのは、車椅子に乗った、長い金髪の若い女性だ。両目からぼろぼろ涙をこぼしながら、「うおおおおお、おおおおお」と我を忘れたように大声で叫んでいた。痛いのだ、つらいのだ、早く何とかしてほしいのだ。
個室で待っている間、患者と医療スタッフの会話が聞こえた。
「これじゃ患者が危険だろう」
「危険ですよね!」
「患者はこんなにいるのに、看護師も医師もいないじゃないか」
「いませんよね!」
「せめて説明があるべきだ」
「あるべきですよね!」
「こんなのは間違っている」
「間違ってますよね!」
半分泣きそうな声を張り上げて言葉を返している女性は、まだ英国に来て日も浅そうなたどたどしい英語を話していた。
百聞は一見にしかず、だ。NHS(国民保健サービス)の惨状は記事で読むが、14年間の緊縮財政が「現場」に何をしたか、私は本当にはわかっていなかった。英政府はNHS修復を謳うが、緊縮で壊したものは、緊縮しながらでは直せない。「現場」の緊迫感が政治になさすぎる。
※AERA 2024年11月4日号