そして迎えた入学式の日の朝。北海道のテレビ局のインタビューを受けた。カメラの前で「どんな医師になりたいですか」と聞かれ、「国境なき医師団で働きたいです!」と誇らしげに宣言した。ところが、直後に始まった入学式で、「君たちは道民の皆様の税金で医者になるのだから、卒業したら北海道に残って働いて北海道に貢献するように」と言われてしまった。

 大学4年生ぐらいまでは、いつか国境なき医師団で活動する自分の姿を想像しつつも、5年生になって臨床実習が始まると、いろいろと選択肢が見え始め、国境なき医師団への思いは少しずつ薄れていった。一方、英語力を生かして、有効に使いたいという昔からあった思いから、アメリカに留学してアメリカの方が進んでいるものを何か学んで日本に持ち帰りたいという思いに、なんとなくつながった。

 そこで、卒業後の初期研修先には、在沖縄米国海軍病院を選んだ。ただ、アイスホッケーやら沖縄をエンジョイしすぎて遊んでしまい、アメリカ留学への準備を怠ってしまった。アイスホッケーが本業の時期や浪人期を経て、浦添総合病院(沖縄)や都立墨東病院で麻酔科医として勤務した。

 アメリカの医師国家試験に本腰を入れて挑戦しようと思い立ち、受験勉強もするためバイト医となり、国境なき医師団にも応募して登録をした。その後、2008年に米国医師国家試験に合格した。救急科志望でいろいろ面接を経ていよいよアメリカのイエール大学病院で臨床研修することが決まった。研修が始まるまで数カ月間あった。この期間に初めて国境なき医師団の海外派遣に参加し、西アフリカのナイジェリアに行った。

国境なき医師団での初の海外派遣となったナイジェリアで活動する中嶋さん=2010年(写真 国境なき医師団提供)

 派遣先は急性期の外傷患者さんを受け入れている病院だった。これまで見たことのないような重症外傷の患者さんが運び込まれて、毎日たくさんの手術の麻酔を担当した。ナイジェリアは道路の整備がきちんとされていないうえ、歩行者が車に慣れていなくて、ひどい交通外傷で運び込まれる患者さんが多かった。また、銃弾を受けてできた銃創や、なたでザクザク斬られたという人など、日本では見たことのないような症例をたくさん診た。

 国境なき医師団の外科系の任務は1カ月と短期間だけれどもとてもハードだった。夜間や休日も呼ばれればいつでも飛んでいく24時間無休の「オンコール」で、毎日のように呼ばれては緊急オペの麻酔をしていた。大変だったけれど短期間に自分自身の成長を実感し、現地の患者さんやスタッフにも感謝され、ものすごくやりがいを感じた。自然と「またやりたい」と考えていた。

 その後は、病院勤務スケジュールを調整しながらなるべく1年に1回は海外派遣活動に参加するようにしている。

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11カ月間に12カ月分の仕事をこなして