10月26日夜から27日にかけて、イスラエル軍がガザ地区北部で多くの住民が避難していた学校を爆撃。多数の死傷者が出た現場に集まるガザ地区の住民ら=2024年10月27日(写真 ロイター/アフロ)
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 昨年10月7日、イスラム組織ハマスによる攻撃への報復として、イスラエルによるパレスチナ・ガザ地区への攻撃が始まって1年。いまも攻撃は続き、これまでに4万人を超える犠牲者が出ている。さらに、食糧不足や衛生面の悪化など人びとの生活状況は深刻だ。昨年10月の攻撃後に届いた派遣要請に応じ、11~12月にガザに入った国境なき医師団(MSF)日本の会長で救急医・麻酔科医の中嶋優子さんは、帰任後も取材や講演等で現地の状況を証言し、停戦を訴え続けている。当時の日記をもとに、全10回の連載で現地の状況を伝える。

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 私が国境なき医師団(MSF)の活動に参加したいと思ったきっかけは、高校時代にさかのぼる。

 都立国際高校に通っていた私は、ダメダメな生徒だった。満員電車が嫌で嫌で駅から電車に乗らずに自宅に引き返すことが多かった。引き返して家に戻る頃には両親は既に仕事に出かけていた。3分の1以上欠席すると留年だが、あと1日の欠席で留年するところだった。アメリカに家族旅行中に「修了式に出ないと留年させるぞ」と連絡がきて、アメリカから慌てて修了式のために1人で帰ったこともある。結構な問題児だった。

米国ハワイ州に住んでいた頃の中嶋さん=1980年(写真 中嶋さん提供)

 11歳まで父の仕事の関係でアメリカで育ったこともあり、小さい頃からなにか英語を生かした仕事に就きたいと思っていた。中学も高校も英語だけは勉強をしなくても答えを当てはめてみてしっくりくるものを選べば点数が取れた。当時は「社会貢献」なんて言葉は意識していなかったけど、この英語の力を自分のためではなく、他人のために使わないとバチが当たる、と漠然と思っていた。

 そんななか、テレビで偶然、「国境なき医師団」を知った。ドキュメンタリーだったかコマーシャルだったかは覚えていないが、さまざまな国から集まった医師たちが世界各地の紛争地や被災地、貧困地域など医療が足りていない地域で活動する様子に目を奪われた。なんてかっこいいんだ、これをやりたい――。そう思った。

 けれど、当時の私は、欠席が多かっただけでなく、嫌いな数学を中心に成績も振るわなかった。担任の先生に医学部に行きたいと伝えると、「絶っっっっっっっっっ対ムリ!!」と渾身の力を込めて言われた。

 そのときは、怒りというよりも、あきれたのを覚えている。高校生に「絶対無理」ってまで言う先生っているんだ? ……確かにほとんど無理だろうけど、「絶対」ではなくない?

 浪人覚悟で医学部を受験した。やはり現役時代は見事にどこも受からなかった。うちは一般のサラリーマン家庭で私立の学費は払えないので国公立医学部しか選択肢はなかった。通い始めた予備校では多浪生もたくさんいたし、気楽な気持ちで楽しい浪人生活を送り、1浪をして札幌医科大学に合格できた。やっぱり英語が助けになってくれた。

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入学式の日、地元テレビ局のインタビューを受けて…