『鬼平犯科帳』『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』シリーズをはじめとする、数多くの時代小説を世に送り出した作家・池波正太郎さん。池波さんは時代小説の名手であると同時に、食通としての顔をも持っていました。
本書『散歩のとき何か食べたくなって』は、池波さんのその食通ぶりが遺憾なく発揮されたエッセイ。粋なエピソードと共に、オススメの飲食店が紹介されていきます。1977年に刊行された本書ですが、掲載された飲食店のなかには、現在もなお池波さんが食した当時の味を変わらず守り続けている老舗も登場します。
神田・連雀町の汁粉屋『竹むら』もそのひとつ。汁粉屋は「男女の逢引にふさわしい風雅な、しゃれた造りでなくてはならぬ」(本書より)と池波さんが綴る『竹むら』の建物は、昭和5年の創業当時と変わらぬ姿で存在。東京都選定歴史的建造物に指定されています。
「椅子席の他に、入れ込みの座敷があり、ここへ坐って、酒後に粟ぜんざいを口にするのは、なかなかよい。酒後の甘味は躰に毒だというが、酒のみには、この甘味がたまらないのだ」(本書より)
『竹むら』の名物は、"粟ぜんざい"、そして"名代揚げまんじゅう"。戦前の東京の面影を感じる建物のなかで、粋な味を楽しんでみてはいかがでしょうか。
「竹むらの名代〔揚げまんじゅう〕をおみやげに包んでもらう。このおみやげを殊勝に家族のものへ持って帰るのかというと、そうではないのだ。(中略)揚げまんじゅうは白粉の匂いのする生きものの口へ入ってしまうのである」(本書より)
昭和の香りが漂う飲食店。目黒にある、とんかつの『とんき』に、その情緒を感じ取る方もいらっしゃるのではないでしょうか。
終戦後は、目黒と品川の境いにある町に住んでいたという池波さんも、『とんき』を訪れてはロース・カツレツで酒かビールを飲み、串カツレツで飯を食べることにしていたそう。大きな調理場を囲むカウンターに座れば、調理場内でそれぞれの持ち場につき、テキパキと自らの仕事をこなす料理人たちの姿に惹きつけられるはずです。
「人それぞれ好みはあるにしても、ともかくも〔とんき〕のとんかつを食べて、『まずい』という人はいないだろう」(本書より)
店内には外国人の姿も数多く見受けられます。
「時代が変れば人の心も変る。人の心が変れば、店の経営も味も変ってゆく。これは仕方もないことなのだ」(本書より)という池波さん。
趣向を凝らしたその店ならではの味が次々と失われていくなか、未だ僅かに残る池波さんの愛した老舗の味を求めに、実際に足を運んでみてはいかがでしょうか。