取材に答える西田敏行さん=2018年12月28日撮影(写真 朝日新聞社)

打ち上げを楽しくする才能、主役食う“人食い人種”に

 少年の西田を夢中にさせた最大の楽しみは映画だった。両親ともに映画好きで、毎週のように西田を映画館に連れて行った。母親は洋画と松竹、父親は東映時代劇の大ファン。当時は時代劇全盛期。中村錦之助(のちに萬屋錦之介)、市川右太衛門、片岡千恵蔵、大川橋蔵、嵐寛寿郎、月形龍之介、山形勲、進藤英太郎……。「あのトップスターたちの仲間に入りたい。将来は時代劇の役者になる」と決めていた。友人たちの前で、気に入ったシーンを再現してみせたりもしていた。

 「いつも人気者。ひょうきんでね。机の前にじっと座って何かやるなんてできないから、サラリーマンは絶対無理だったんじゃないかな。『釣りバカ日誌』のハマちゃんのまんまだよ」

 村上はそう言って笑う。その村上が驚いたのは、西田が東京の明治大学付属中野高校に進むと聞いたときだ。中学の担任からは、県内トップの県立高校も受かると言われたが、俳優になるためには早く東京に行って訛りをなくしたかった。明大中野高校を選んだのは、卒業生に役者やタレントなどが多かったからだ。上級生に、のちにミュージシャンになる宇崎竜童もいた。

 東京の水は甘くなかった。なかなか訛りが抜けず、同級生からは「おい、フクスマ」と冷やかされた。学内の雰囲気に馴染めず、親しい友人が1人もできない。街中で、不良におカネを脅し取られたりもした。慰めはやはり映画だった。のちに、「釣りバカ」で共演することとなる三國連太郎主演の「飢餓海峡」などを観ながら、「よし、あそこに行くからな」と自分に語りかけていた。ときどき学校を無断欠席し、上野動物園のゴリラにも会いにいくようになる。

 「アフリカから連れてこられたゴリラで、遠くを見るような目をしているんですよ。なんだか自分を見ているみたいでね」

 有名になってから、雑誌で上野動物園元園長の中川志郎と対談をしたことがある。西田が記憶に残っているお客は?と聞くと、中川は、「檻の前で、ゴリラをじっと見ていた学生服姿の少年」と言った。まさしく西田のことだった。

 明治大学農学部への内部推薦を得たものの、農業にまったく関心が湧かず、父親に聞いた「日本演技アカデミー」という学校の夜学に通った。大学は除籍処分となった。演劇学校の仲間と立ち上げた劇団は、1年あまりで解散。皿洗いやキャバレーのボーイなどのアルバイトをしながら、いろいろな舞台を観にいくうち、青年座の公演で観た不条理劇に感動した。

 60年代が終わろうとしていた。大学紛争、全共闘運動がピークを迎え、町は騒然としていた。時代の熱気と、怖いもの知らずの己の気持ちが重なり合うような高揚感があった。青年座の養成所に入り、71年、「写楽考」(矢代静一・作)の主役に抜擢された。看板女優だった山岡久乃が退団し、曲がり角を迎えていた青年座が起死回生を狙って打った公演だった。主人公は、のちに写楽となる「伊之」という男。「田舎から出てきて、絵師としてあれもこれも描きたいと、うずうずしている。野心満々で生意気。まるでいまの自分だと思いました」。主人公に自分を重ね合わせて演じたこの芝居が、評判を呼んだ。

 「初演は旧俳優座劇場で、螺旋階段を制作部長がカン、カン、カンと駆け上がってきて、丸札だよ、丸札!って言うんです。入りきれなくて、お客さんに帰ってもらったということなんです。嬉しかったですね」

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