電力会社のCMには出ない、長嶋より村山実に共感抱く
西田は、原発事故の直後から、事故や放射能汚染の風評被害に関してテレビなどでストレートな物言いをしてきた。昨年6月14日には、岩手、宮城、福島の被災者を支援するための「ふるさと支援」の記者会見に俳優の菅原文太とともに出席、涙を見せ、抑えきれない気持ちをあらわにした。
「経済発展になんとしても原子力発電が必要だ、日本の原発は絶対安全、と豪語した人もいっぱいいた。だが大事故を引き起こしてしまった。悔しいという思いと、事故は起きるはずがないんじゃないのという怒りがこみ上げてきた」
会見を企画した「NPOふるさと回帰支援センター」理事長で、フリーアナウンサーの見城美枝子は、「ふわっと包む雰囲気の方なのに、会見のときは、ずっと、とんがってました。福島が裏切られた悔しさですよね。いつもの西田さんの感じはなく、怖いくらいでした」と振り返る。
国策として推進され、巨大利権が絡む原発に対して、国民的俳優の西田が思いの丈をぶつけたことに驚いた関係者も多かった。故郷福島を放射能で汚染されてしまった悔しさだけではない。若い時から原発に危機感を持ち、核を否定してきた。電力会社のCMには一度も出たことがない。
「原子力エネルギーは人間がコントロールできるものではない。昔から原爆に関心があり、原子力には理屈抜きに恐怖を感じていました。子どもの頃、母親がよく原爆の話をしてくれたんです」
西田の母は広島生まれだった。原爆が投下された時には東京にいたため被爆はしていない。だが、自分の生まれた町が核兵器によって破壊されたことにこだわり続けていた。毎年8月6日の朝、黙祷する母を見て育った。
「僕は、母によって、正義とは何かということについての想いを育まれたんです」
だが、その母は生みの親ではなかった。
西田は1947年、郡山市で生まれている。西田が5歳のときに父親が亡くなり、夫に先立たれた実母は、西田を連れて上京。美容院を開いて生計を立てようとしたが、しばらくして交際相手ができた。やがて西田は、子どものいなかった実母の姉夫婦の家に養子として入ることになった。
「その頃のことで思いだすのはポマードの匂いです。実母を取っていった人の匂いだなと」。西田は多くを語らない。だが、小学校時代からの親友、村上賢一は、西田が言ったことを覚えている。
「あるとき、西田が、『オレ、もらいっ子かもしんねんだ』って、鳥居の下でボソッと言ったことがあってね。ドキッとしたもんね」
養子に入った先の父親は公務員。神社の社務所を借りて暮らしていた。両親とも物欲がなくて、清貧な暮らしだった。あまりに物を買わないので、「うちにおカネはあるの?」と西田は、よく聞いたという。つましく生きる姿や何気ない日々の言動を見て育った西田は、少数派や目立たない側に自然と気持ちが向くところがあるという。
「たとえば近藤勇より土方歳三が好き。どういうわけかトップより二番手、三番手に惹かれるんですね。『巨人・大鵬・卵焼き』の時代に『阪神・柏戸・目玉焼き』って言ってましたもん」
西田が好きな話がある。プロ野球阪神タイガースの元エース、村山実のことだ。伝説の試合として今も語り継がれる59年の天覧試合、巨人対阪神戦に7回から登板。4対4の同点で迎えた9回裏、長嶋茂雄に逆転サヨナラ本塁打を打たれ、敗れた。打球はレフトのポールをかすめるようにしてスタンドに入ったのだが、村山は終生本塁打とは認めず、「あれはファウル」と言い続けた。村山はその少し前に母親を亡くしたばかりで、胸のペンダントに母の遺骨を入れ、1球ごとに触りながら投げ込んでいた。むろん判定は覆らなかった。
「ファウルと言い続けた村山さんの気持ちを認めたいんです。もちろん、あれはホームランですよ。でも、大勢が背中を見せて向こう側へ走っているときに、こっち側を向いている人間がいる。そういうことに表現の主体を置いておきたい」