小学生の時から外国文学を手に取っていたという翻訳家の鴻巣友季子さん。これまで最も影響を受けた本は、安部公房さんの長編小説『箱男』なんだとか。とはいえ、やはり外国文学をよく読むそうで、最近ではオーストラリアの作家、ケイト・グレンヴィルさんの小説『闇の河』が印象的だったといいます。今回は、前回に引き続き、鴻巣友季子さんがこれまでに影響を受けた本をご紹介していきます。
------翻訳家として、またはエッセイストとして、最近影響を受けた本があればご紹介ください。
「2014年に『翻訳問答』という本を一緒に出版した片岡義男さんの短編集『コーヒーにドーナツ盤、黒いニットのタイ。』という小説です。片岡さんとっては初の自伝小説集になります。早稲田大学時代、卒業してたった3カ月だけ勤めた貿易会社での出来事、その後の作家としての活動を綴った内容となっており、全部で44編の短編から構成されています。時代でいえば1960年頃から1973年くらいまでのお話。片岡さんはものすごく音楽に詳しく、大変な音楽愛好家なんですが、彼の大好きな音楽が各編に登場するんですよ。それはアメリカンポップスから日本の江利チエミさんだとか北島三郎さんといった具合に、本当に幅広い範囲の音楽をカバーしていて。そういった音楽が短編の中にちらちらっと出てくるというのが、またすごくオツなところです」
------タイトルにある「ドーナツ盤」というのは、音楽レコードのことでしょうか。
「そうなんです。この本には全121枚のレコードのジャケット写真がカラーで併載されているのですが、『CD』ではなく、昔『ドーナツ盤』と呼ばれたアナログレコードなんですよ。それを本のタイトルにもってきている。実は私が一番好きなのは片岡さんの付けるこういったタイトルなんです。一つ一つの短編のタイトルも、ものすごくかっこいい。例えば、『真珠の首飾りを彼女がナイトテーブルに置いた』なんてタイトルの短編があるんですが、ここには片岡義男の中ではこの語順でしかありえないというような、彼の文章哲学というか美学みたいなものが凝縮されています。そういったタイトルの付け方にも注目してみると、よりいっそう楽しめる一冊になっています」
------タイトルのセンスに惹かれてその作品が好きになることもあるのですね。
「ほかにも、戌井昭人さんという作家さんの『のろい男 俳優・亀岡拓次』という本があるのですが、それは主人公の人柄で好きになりました。この本は、俳優の安田顕さん主演で『俳優 亀岡拓次』というタイトルで今年の1月から公開された映画の原作本です。ある名脇役が主人公で、とにかく脇役ばっかりやっているんですね。誰かにぶん殴られたり、せっかく殺し屋みたいな格好良い役をやっても、殺し屋なのに冒頭で真っ先に殺されちゃったり、ホームレスで流れ弾に当たって死んじゃう役とか。いつもちょこっとしか出ない役なんですが、とっても存在感があって味のある役者、そういう設定なんです。アラフォーで独身の役者の生き様を綴った連作短編集。なんてまとめるとカッコいいですが、内容的にはけっこう脱力系で、いま私が今一番ハマっていると言ってもいい一冊です」
------この作品のどんな部分に強く惹かれたのでしょうか。
「主人公の亀ちゃんっていうのが、なんかもうたまらなくいいんですよ。特に趣味もなく、お酒を飲むのが大好きでロケから帰ってきたら必ずスナックに立ち寄って、ちょっと一息ついてからカラオケで2曲ぐらい歌ってほっとするみたいな。そんなある日の夜、撮影が終わって街をふらふらしていると、どこからともなく小さいおばあさんがちょこちょこ出てきて。その女性は客引きだったんですが、そのまま怪しいスナックだか風俗店だかに連れて行かれちゃって。そこには結局若い女の子なんかいなくて、亀ちゃんは、『えっ、このばあさんが相手?』とか思うのですが、まあこれも人生経験だ、昔の芸の肥やしだと思い直し、おばあさんと親しくするわけですよ。そんな中で昔の自分を振り返ったりして。でも最後にはなんてことなく、また街をさまよっていく亀ちゃんの姿で終わったりするんです。教訓みたいなもの、なにもないです。そういうところがいいんですね」
------鴻巣さん、ありがとうございました。
<プロフィール>
鴻巣友季子 こうのすゆきこ/1963年、東京都生まれ。翻訳家。ノーベル賞作家J・M・クッツェーやマーガレット・アトウッドなど英語圏の現代作家の作品を翻訳、紹介すると同時に、ゼロ年代からは古典文学の新訳にも力を注いでおり、国内外の文芸評論も行う。2011年からは毎日新聞書評委員も務める。主な訳書は、クッツェー「恥辱」(ハヤカワepi文庫)、アトウッド「昏き目の暗殺者」(早川書房)、ブロンテ「嵐が丘」、ミッチェル「風と共に去りぬ全5巻」(以上、新潮文庫)、ウルフ「灯台へ」(河出書房新社 世界文学全集Ⅱ-1)。主な著書に「熟成する物語たち」(新潮社)、「翻訳問答」シリーズ(編著 左右社)がある。