のちに「愛と平和の三日間」などと呼ばれることにもなる1969年夏のあの歴史的フェスティヴァルは、当初、ニューヨーク州南東部アルスター郡のスモールタウン、ウッドストックを中心にしたエリアで開催されることになっていた。しかし、環境条例や地元住民の反対などに阻まれ、直前に、そこから南西に100キロほど離れた、同州ベスルという農村での開催に落ち着いている。広大な土地を提供したのは、マウンテンの「ヤスガーズ・ファーム」などいくつかの曲でも歌われた農場主マックス・ヤスガーだ。
ウッドストックは、マンハッタンの北、約160キロに位置する、現在でも人口6千人ほどの町。周辺のソウガーティーズなどとあわせても2万人前後だろう。前世紀初頭から何人かの芸術家たちが静かな環境を求めてそこに創作拠点を移すようになったそうで、これは実際に訪ねて感じたことだが、北軽井沢のようなエリアと考えていただいていい。
1960年代半ば、ボブ・ディランがウッドストックに移り住み、ザ・ホークス(ザ・バンドの前身)を呼び寄せ、新しいロックの時代の喧噪をよそに、まるで隠遁者のような暮らしをそこでつづけた。とはいうものの、もちろん、一時も彼らの頭から音楽は離れなかったわけであり、そういった日々のなかから『ザ・ベースメント・テープス』や『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』といった名作が生まれている。フェスティヴァルの主催者だった二人のヒッピーと二人のヤッピーがウッドストックに着目し、実現が不可能になってもその名前を変更しなかった最大の理由は、まさにその彼らの存在だった。
前振りが長くなってしまったが、この時期、『ジョン・ウェズリー・ハーディング』、『ナッシュヴィル・スカイライン』、『セルフ・ポートレイト』、『ニュー・モーニング』などの作品を発表しながらも、ツアーに出ることのなかったディランは、73年を迎えたころ、ロサンゼルスに移っている。具体的には、サンタモニカの西方約30キロのマリブ。一時期、日本の著名高額所得者が暮らしていたため、妙なイメージがついてしまったかもしれないが(セレブなどという気持ちの悪い言葉が定着してしまったのとほぼ期を一にしている)、ここもまた、早くから芸術家たちを引き寄せてきた土地らしい。
同年夏ごろ、ザ・バンドの中心人物ロビー・ロバートソンも(おそらくディランに呼ばれて)マリブに家を構えることとなり、ほかのメンバーも近くで暮らしはじめている。『ビッグ・ピンク』や『ザ・バンド』、『ロック・オブ・エイジズ』などで強い影響力を持つユニットとしての地位を確立したものの、じつは当時、彼らは壁のようなものに突き当たっていた。主にロバートソンと精神的支柱だったリヴォン・ヘルムとのあいだでの、内部対立も目立つようになっていた。
ともに、いわば「新しい一歩」を模索していた彼らは、この年の秋、ロサンゼルスのスタジオで『プラネット・ウェイヴズ』を録音し、翌年、記録的なスケールの全米ツアーを成功させている。そのツアーを記録したライヴ・アルバムにつけられた『偉大なる復活』という邦題は、かなり正確に、当時の彼らの状況を物語るものだった。
ザ・バンドが『プラネット・ウェイヴズ』のプロデューサーだったロブ・フラボーニの協力を得て、マリブにシャングリラ・スタジオという創作拠点を構えたのはその直後のことだ。以前からザ・バンドに嫉妬に近い想いを抱いてきたエリック・クラプトンは、彼らやディラン、フラボーニらとともに、理想郷を意味するそのスタジオで『ノー・リーズン・トゥ・クライ』を完成させ、ロビーやリヴォンもそこで『ノーザーン・ライツ - サウザーン・クロス』という名盤を残している。
同じ時期、すでに現在のシリコンヴァリー・エリアに移っていたニール・ヤングは、離れて暮らす長男と会うため、マリブに部屋を借りていた。同胞でもあるザ・バンドの面々との急接近は当然の流れであり、74年夏発表の『オン・ザ・ビーチ』にはリック・ダンコとリヴォン(彼はアメリカ人だが、細かいことはともかく)も参加している。こういった濃密な交流が、ディランやクラプトン、ヤングなど多くの大物アーティストが参加した『ザ・ラスト・ワルツ』で実を結んだわけだ。もっとも意義深い解散コンサートとしてロックにその名を残す『ザ・ラスト・ワルツ』の音=サウンドトラックの仕上げが行なわれたのも、シャングリラでのことだった。 [次回5/18(水)更新予定]