撮影/写真映像部・松永卓也
撮影/写真映像部・松永卓也

■全人生を賭けたもの

 2011年、東日本大震災後に福島市であった、福島ゆかりの音楽家による手作りフェスティバルで、坂本の姿を見かけた。話しかけると、「憎まれてまでなぜ発言するのか。気恥ずかしくて言いたくないけれど、愛ですよ。日本や、日本人に対する愛」と語っていた。

 坂本の訃報に、音楽で「思想や哲学すら表現」したと書く新聞があった。同意できない。坂本の音楽を矮小化するものだ。政治的な主張をするならば、音楽は一葉の政治ビラに劣る。吉本隆明、村上龍とのかつての鼎談で、坂本は「反体制とか国家とか(略)自分が音楽を作ることと、脳の違う部分で、やっている」「音楽の部分には国家も体制もない」と語っている。

 そうではなく、坂本の音楽は、メロディーの無限性に、また旋律を「美しい」と聴き入る人間の感受性に、全人生を賭けたものではなかったか。

 20年12月12日、坂本は無観客のピアノソロ・コンサートを配信した。選曲はさながら坂本のベスト盤の趣があった。晩年のブラームスのような「Andata」、哀しいのに軽妙な「水の中のバガテル」。

 坂本の場合、まずは数秒のテーマをつかまえるのだろう。それを、作曲家としての手練手管で、ひとつの作品にまで拡張していく。だから、メロディーに限界はない。人間のクリエイティビティーは、無限だ。人間の感受性も、また無限だ。美しさを美しさとして聴きとれる。人間に、信頼をおく。

「いいメロディーなんて、もう出尽くしてしまった」といわれる現代にあっても、坂本は終生、旋律を、消えない響きを探し求め、また、探し当ててもきた。愛するものを信じた。あきらめなかった。

 どんなに哀しい坂本のメロディーを聴いても、明るくなる。開けた気持ちになる。生きる希望がわくのは、そのためだ。(朝日新聞編集委員(天草)/近藤康太郎)

AERA 2023年4月17日号