「音楽に国境はない」とよく言われる。しかし、本当にそうなのだろうか。
少なくとも、過去のある時期、音楽には国境があった。そんな時代の物語を、『戦争交響楽』と題してまとめた。音楽家たちの物語なのだが、陰の主人公はヒトラーだ。
20世紀で最も多く本が書かれた人物はヒトラーだという。いまも毎月、何らかのかたちでヒトラーについて書かれた本が出ている。私自身もこれまでに「ヒトラー」をサブタイトルに入れた本だけで3冊書いてきた。もちろんヒトラーを支持もしないし信奉もしていないが、興味ある人物であることは確かだ。
世界史一般の大きな謎として、「なぜ当時世界一民主的な憲法の国であるドイツで、ヒトラー政権が生まれ、独裁政権となり、ユダヤ人大虐殺という史上稀な残虐行為が国家としてなされたのか」がある。答えはひとつではないだろう。もうひとつドイツをめぐる謎では、「バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ワーグナーの音楽が生まれた国で、その音楽を愛する国民が、なぜ世界大戦とホロコーストをやったのか」というのもあり、クラシック・ファンとしては悩ましい問題となる。事情を複雑にするのは、ヒトラーのドイツに留まり、ナチスの宣伝塔となってしまった音楽家たちの作品や演奏が、すばらしいということだ。
クラシック音楽はドイツ音楽が主流だ。そしてクラシック音楽の作曲家や演奏家には、ユダヤ系の人々がかなりいる。ところが、そのクラシック音楽の本場であるドイツに、反ユダヤ主義のヒトラー政権が誕生した。さらにヒトラーは隣国を次々と占領、支配下に置き、ソ連を植民地にしようという野望のもとに戦争を始めた。その結果、世界はドイツと非ドイツとに二分されて世界大戦を闘うことになり、同時に音楽界も二分された。
では、誰がドイツ陣営にいて、誰が非ドイツ陣営だったのか。昨今、有名演奏家やオーケストラ・歌劇場の過去の演奏記録は、かなり電子化されネット上にある。そのおかげで、日本にいながらにして戦前・戦中の様子が分かるようになった。そのままデータを羅列しただけでは記録集になってしまうので、音楽家たちの回想録や評伝でその前後の事情を調べ、各国史、戦争史にもあたりながら、歴史読み物となるようにした。
対象とするのはヒトラー政権誕生の1933年から終戦の45年までの12年間で、フルトヴェングラー、トスカニーニ、ワルター、カラヤンの4人を中心に、ワンシーンしか出てこない人も多いが、100人前後の音楽家が登場する。ドイツに留まりヒトラー側についたのがフルトヴェングラーとカラヤン、ドイツで活躍していたがユダヤ人だったので仕事を奪われアメリカに活路を見いだしたのがワルター、イタリア人だがムッソリーニと対立し国を出て、アメリカで活躍していたのがトスカニーニとなる。
音楽家たちは、時代が時代なだけに、政治的言動もかなりしている。当然、意見の対立もあった。フルトヴェングラーとトスカニーニは「ナチスの国で演奏することの是非」をめぐり、直接、論争もしている。ドイツにいた音楽家たちのなかにはナチスに積極的にかかわった人もいれば、ずるずるとドイツに留まった者もいるし、毅然としてドイツを去った人もいる。ドイツ以外の国にいた人のなかにも、積極的に反ナチスを訴えた人もいれば、消極的だった人もいる。ナチスに占領されても抵抗しない人もいた。
思想信条とその人の音楽の間に関係があるのかないのかは、分からない。分析不可能な事柄だと思う。一例をあげれば、フルトヴェングラーが命令されていやいや指揮したヒトラー誕生日前日に演奏したベートーヴェンの第九の録音が遺っているが、これがすさまじい迫力の名演なのだ。
さらに驚くのは、空襲の最中でも演奏会が開かれていたことだ。終戦直前、ソ連軍が侵攻してきたベルリンでも、ヒトラーが自殺する二週間前まで演奏会は開かれ、ヒトラーの死から2週間後には再開している。空白期間は1カ月なのだ。どちらも、入場料を取っての演奏会だ。人々がいかに音楽が好きで必要としていたかが分かる。
この本では事実を記しつつ解説は加えたが、論評はしなかった。いや、平和な時代に生きる私には、論じることも評することもできなかった。書き手としては、すさまじい時代だった、と感慨を抱くのみだった。
昨年末、戦前から戦中のドイツ映画界を、レニ・リーフェンシュタールとマルレーネ・ディートリッヒを主人公にして描いた『オリンピアと嘆きの天使――ヒトラーと映画女優たち』を上梓した(毎日新聞出版)。併せてお読みいただければありがたい。