店は床面積が8坪で、カウンターに10席と小さなテーブル席が二つ。幼稚園から高校まで一緒で、結婚したばかりの妻の利美さんと2人で始めると、開店した日は母校の恩師や友だちがきてくれて賑わった。でも、ご祝儀の来店が一巡すると、客足は落ちる。暇な日が続き、「どうしよう、どうしよう」と悩むが、いい知恵は出ない。1年間、客がこない日が多かった。

 妻が妊娠したが、アルバイトも雇えず、1人で店を続ける。

 そんななか、ラーメン屋で知ったのが「深夜市場」だ。店は周囲と同様に午後5時に開けても、勝負はよそが閉店する深夜の12時から。やってみると、客は12時まではこなくても、そこから次々にきた。飲み屋街のバーやスナックが閉まると、客とママや従業員が連れ立ってくる。昭和の終わり、日本経済が黄金期を迎え、ビジネスパーソンたちは「朝まで飲み、しゃべる」という場を求めていた。

 暇な日続きだったので、ともかく賑わうことがうれしい。ここで「客は何を求めているか」が何よりも大事だ、と気づく。粟田貴也さんがビジネスパーソンとしての『源流』になった、とする体験だ。

 1961年10月に神戸市に生まれ、3歳のときに父が買った加古川市の家へ引っ越した。大学時代、アルバイトを重ねていたときに本屋で立ち読みした雑誌に、神戸市のケーキ店で当てた社長の記事に「サクセス」という言葉があり、豪邸と高級車の写真もあった。「これだ」と、中学生のときに抱いた「立身出世」への思いが蘇る。

 店を持つ資金を貯めるため、大学はやめて、新聞の求人広告欄で報酬が最も高かったトラックの運転手になった。早朝から夜遅くまで働いて、あとは独身寮で寝るだけ。でも、『源流』の水源が溜まり始めていた。

深夜にきた屋台男女2人との会話が人間らしい時間に

 ある日、ふと、潤いが生まれた。夜になると、独身寮の需要を狙って、軽トラックの焼き鳥屋の屋台がきた。のぞいてみると、店の男女2人としゃべるのが楽しく、人間らしい時間を持てる。客の前で焼き鳥を焼きながら、言葉を交わす。「トリドール3番館」のモデルが、そこにあった。

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