ビーチ・ボーイズやビートルズ、ローリング・ストーンズが大きなムーヴメントを巻き起こし、ボブ・ディランのようなタイプのアーティストが広く注目されるようになるまで、ブルースやフォークなど一部の例外を除くと、アメリカの大衆音楽は、分業制が基本だった。作詞作曲はプロのライターが担当し、歌手は、与えられた曲、あるいはソングブックから選んだ曲をそれぞれのスタイルで歌う。そのシステムが揺らぐことはなかった。ポール・サイモンやニール・ダイアモンドなど、のちに大きな成功を収めた人たちのなかにも、もともと目指していたものがなにであったかはともかく、書き手の側から出発した人は少なくない。
キャロル・キングもその一人。1942年、ニューヨーク・シティでユダヤ系の家庭に生まれた彼女は、17歳のとき、カレッジで出会ったジェリー・ゴフィンと結婚し、すぐ母親になってしまう(まあ、細かい順番はともかく)。やはり彼女も早くから自分で歌うことを夢みていたようだが、結局、生活のため、ジェリーとのコンビで仕事として曲を書くようになった。そのとき二人が契約したのが、老舗の音楽出版社アルドン・ミュージック。場所は、アメリカ音楽の分業制の象徴、マンハッタンのブリル・ビルディングだった。
曲を書き、デモ・テープを録音し、譜面に記録する。そんな日々のなかから、女性グループ、シレルズのために書いた《ウィル・ユー・ラヴ・ミー・トゥモロウ》が全米ナンバー・ワンを記録。その後も、《ロコモーション》、《アップ・オン・ザ・ルーフ》、《ナチュラル・ウーマン》、《プリーザント・ヴァリー・サンデイ》などがつぎつぎとヒットを記録し、キャロル&ジェリーは若くしてトップクラスのソングライター・チームの地位を確立してしまう。
しかし、考え方や生活スタイルの違いなどが原因で、二人は68年に離婚。キャロルは子供を連れてニューヨークを離れ、なにか惹かれるもの、あるいは閃くものがあったのか、前々回のコラムで紹介したローレル・キャニオンに向かっている。そして、そこで出会った新しい音楽仲間たちからさまざまな形で刺激を受け、シンガー・ソングライターとしての、新たな人生をスタートさせたのだった。
恋人のベース奏者チャールズ・ラーキー、ギタリストのダニー・クーチらと結成したザ・シティ、初ソロ作『ウィンター』をへて、通算に2作目となる『タペストリー/つづれおり』を発表したのが71年2月。ジェイムス・テイラーも歌い、彼のヴァージョンで全米1位を記録した《ユーヴ・ガット・ア・フレンド/君の友だち》、新たなパートナー、トニ・スターンと書いた《イッツ・トゥー・レイト》(やはり全米1位に)などを収めたこのアルバムは、驚異的なロングセラーとなった。メディア、業界関係者からの評価もきわめて高く、翌年のグラミー賞授賞式で彼女は4つのトロフィーを手にしている。
ラーキー、クーチ、ドラムスのラス・カンケル、ジェイムス・テイラー、ジョニ・ミッチェルらと録音した『タペストリー』は、これぞ《シンガー・ソングライターのアルバム》という作風、曲調、サウンドに仕上げられているが、興味深いのはブリル・ビルディング時代の作品3つに、彼女自身のヴォーカルによって新たな生命が与えられていることだ。60年代初頭にはイノセントなガールズ・ポップだった《ウィル・ユー・ラヴ・ミー・トゥモロウ》は成熟した女性の祈りのような歌となり、もともとゴフインは男性の視点で歌詞を書いたものらしい《ナチュラル・ウーマン》は、自分らしい生き方を求める女性たちのアンセムに姿を変えていた。
アルバム『タペストリー』の成功は、キャロル・キングの人生のターニングポイントであったことはもちろんだが、70年前後の、社会と音楽文化の大きな変化を物語る事件でもあった。 [次回3/9(水)更新予定]