秦の兵馬俑(写真:アフロ)
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 映画『キングダム大将軍の帰還』が盛り上がりを見せている。映画には登場しないが、キングダムの人気キャラの一人に挙げられる武将と言えば、桓齮(かんき)だろう。悪党出身の将軍として描かれているが、史実ではどんな活躍をしていたのだろうか。

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 映画『キングダム』の中国史監修を務めた学習院大学名誉教授・鶴間和幸さんは著書『始皇帝の戦争と将軍たち』の中で、古代文献に残る「桓齮による斬首の記録」について触れている。新刊『始皇帝の戦争と将軍たち』(朝日新書)から一部抜粋して解説する。

【『キングダム』にかかわる史実に触れています。ネタバレにご注意ください】

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 始皇九(前二三八)年の嫪毐(ろうあい)の乱が終結すると、秦による趙への大規模な侵略が続いた。

 始皇一一(前二三六)年、秦は王翦を中心とした桓齮・楊端和との連合軍で、趙の鄴(ぎょう)や閼與(あつよ)など九城を取った。始皇一二(前二三五)年に呂不韋が亡くなると、秦は趙への攻撃をさらに加速させた。

 始皇一三(前二三四)年、秦の桓齮将軍は趙の平陽を攻撃し、扈輒将軍を殺し、一〇万人を斬首した。

 桓齮による進軍は止まらず、翌年の始皇一四(前二三三)年には平陽、武城(ぶじょう)、宜安(ぎあん)を平定した。始皇一五(前二三二)年には軍を発動して趙の鄴(ぎょう)を攻める一方で、太原と狼孟をも攻めた。

 趙の李牧が秦に反転攻勢したきっかけは、趙王遷二(前二三四)年、秦の桓齮将軍による趙将扈輒(こちょう)軍の斬首一〇万の屈辱であった。李牧は将軍の上に立つ大将軍となり、秦軍を宜安(ぎあん)と肥下(ひか)の戦いで破り、桓齮を走らせた。この功績で李牧は武安君に封ぜられた。

 二度目は前二三二年の番吾(はご)の戦いであった。李牧軍は秦軍を撃破し、韓、魏の国境まで追った。ここまでの戦いは趙都・邯鄲の北部で、李牧の戦い慣れた地盤の代に近く、李牧の機動力の方が秦軍よりも優れていた。

 秦軍は占領郡の泰原郡から一方向だけの正面突破であった。秦から見れば二度の敗北を経て、始皇一八(前二二九)年の王翦の総攻撃となる。王翦軍は従来と同様、泰原郡から平地に下り、同時に楊端和軍が占領地の河内の南から邯鄲を攻撃、羌瘣もおそらく占領郡の東郡から邯鄲に迫った。李牧と司馬尚が迎撃した。

 李牧は当初はしばしば秦軍を走らせ、『戦国策』によれば秦将の桓齮を殺したという。

桓齮(かんき)│斬首一〇万で震撼させた秦将

 桓齮は、『史記』には六回登場する。

 初出は始皇一〇(前二三七)年、「桓齮将軍と為る」。その翌年の一一(前二三六)年の記述は、「王翦、桓齮、楊端和鄴を攻め、九城を取る」。桓齮は王翦、楊端和と連携して魏の鄴城を攻め、九城を取った。

 その後、一三(前二三四)年に趙の平陽を攻め、趙の将軍扈輒(こちょう)を殺し、斬首一〇万(「桓齮趙の平陽を攻め、趙将扈輒を殺し、斬首十万」)。

 しかし趙の大将軍の李牧に反撃されて、退去する(「趙乃ち李牧を以て将軍と為し、秦軍を宜安に撃ち、大いに秦軍を破り、秦将桓齮を走らす」)。

 『史記』にはその後の動きは不明であるが、『戦国策』趙四「秦使王翦攻趙(秦王翦をして趙を攻む)」によれば、李牧が秦将桓齮を殺したと記し、これを憎んだ王翦が趙王の寵臣の郭開(かくかい)に金銭を与えて秦の反間にし、李牧らが秦に内通していることを伝えさせた。

 桓齮は始皇一八(前二二九)年の王翦の趙攻撃総力戦に参加していたことになる。王翦が桓齮を信頼していたことがうかがえる。秦王嬴政の統一戦争の前半を支えていた将軍の一人といえる。

《朝日新書『始皇帝の戦争と将軍たち』では、趙をはじめ六国滅亡の経緯を詳しく解説。「キングダム」の主人公「信」は史実でどう動いたのか? 将軍・騰(とう)をめぐる最大の謎とは?本書で名将軍たちの活躍を詳述している》

始皇帝の戦争と将軍たち 秦の中華統一を支えた近臣軍団 (朝日新書)