ところが、長野放送局の関根太朗さんというアナウンサーが、この開拓団送出を拒否した村長がいた、という事実を見つけてきて、それを番組にしたのね。私はコメント出演しただけで、詳しいことは彼が取材してきたんですが、この村長が面白い。昔の大下条村(現在は下伊那郡阿南町の一部)の佐々木さんという村長。もう故人ですけど。

 移民事業が始まったとき、村長は満州視察に行って、「誰もが土地持ちになれる」「五族協和」なんて嘘っぱちだと気がつくのね。土地は中国人を追いだして、ただ同然で買い叩いたもの。五族といったって、日本人は一等国意識で凝り固まって、中国人や朝鮮人などを怒鳴り散らしている。奥さんから「あなた、そんなところに家族や親類を送れるの」とも言われて、彼はこの国策には協力しないと決めた。

 だけど、「オレは反対だ」なんて言える時代じゃない。そこで行政手順がいろいろややこしいのを逆手にとって、事業計画の策定、その策定の役員の選定、その役員選定のための委員の選定とか、役場の仕事をどんどん複雑にしていって、たった一人で引き延ばしをやった。そのときの村人たちの反応が面白い、というか、身につまされましたね。

 そこらじゅうの村が開拓移民を送り出している。村民たちはそれを聞いて、「満州は王道楽土らしい」「早く豊かになりたい」「乗り遅れる」と焦る。そういう宣伝は新聞・ラジオばかりかニュース映画でもやってましたからね。議員や青年団が毎晩村長宅に押しかけて、「早く決めろ」「早く行かせろ」とせっつく、というより食ってかかっていた。

 これが1942、43(昭和17、18)年のころですよ。つまり、真珠湾攻撃の派手な戦勝気分はとっくに終わって、ミッドウェー海戦の敗北を機に、ガダルカナル島敗北、アッツ島玉砕(ここで私の叔父が死んでます)等々と負けが混んできた時期。でも、村民は負けるなんて夢にも思っていない。日本中が思っていない。だってラジオも新聞も「勝った」「勝った」の大合唱をやっているんだから。あとは空襲、沖縄陥落、原爆、焦土、飢餓、310万人の死に向かってまっしぐら。結局、移民どころではなくなって、結果として、200~300人の農民家族の命が助かったというわけ。

 こういう話、自分をどの立場に置いて考えます? 私は間違いなく、「オレたちも早く行かせろ」と怒鳴り込んだ農民の側だね。だって、政府もマスコミも「満州は新天地」「みんな楽しくやっている」と言っているんですよ。それを疑ったり、比較して考える材料はまったくゼロ。マスメディアが政府や軍部とつるんで拡声器の役しかしてないとき、正気の判断ができるとは思えないもの。

次のページ