●伝聞調が真実味を希薄化する 語呂のよさに頼りすぎでは?

 率直な感想を述べれば、真実味の希薄な報道という印象を拭い切れない。元来「……ということです」は出処のはっきりしない情報や伝聞性の高い情報(確証度の低い情報)を伝えるときに使われる言い回しである。報道する側にとっては、一種の「逃げ的な表現」とも言える。発生直後の一報段階で取材が十分でない場合や、現場が海外など遠隔地にあり直接的な取材や確認作業が困難な場合に限って使うことが通例だった。情報源がはっきりしており、その情報が事実であるなら「……です」「……でした」と言い切ればよい。そのほうが視聴者にも伝わりやすい。

 先の事例を考えてみる。警察(千葉県警)は事件の被害者であり、同時に捜査機関である。その警察が情報源であるのは明らかだ。情報の出処ははっきりしている。事実関係の確認作業も難しくはないだろう。(1)、(2)いずれの例でも、取材者が警察から事件の概要をきちんと聴き取り、事実関係を確認したうえで出稿し、報道局の幹部が中身を精査して放送に踏み切ったはずだ。

 ところが、なぜか報道の内容は伝聞調に終始している。あえて伝聞調の言い回しを使って、逃げを打つ必要などない。あくまでも私の推察だが、取材・出稿者が「聴いてわかりやすい」表現に重きを置き過ぎた結果として、事実(確認された情報)と伝聞(未確認情報)の境目が曖昧な内容のニュースになってしまったのではないだろうか。私が「真実味の希薄な報道」と評したのは、そういう意味合いからである。

 「です」「ます」調を基本とするテレビ・ラジオのニュース原稿では、語尾の処理に苦労することが多い。「……ということです」と文章の末尾を結んでしまったほうがなんとなく座りがいい。語呂が良い分だけリズム感もある。ついつい多用しがちだ。私も駆け出しの頃はそうだった。だが、本来の意味から乖離した使い方に走り過ぎると、伝えるべき情報の信憑性を希薄なものにしかねない。「ということです」報道には、そういう副作用がある。使用には抑制的であるべきだ。

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