戦いは終わった。投入されたバルチック艦隊38隻のうち、撃沈や捕獲から免れたのは巡洋艦5隻(うち1隻は座礁後自爆)、駆逐艦3隻、特務艦3隻のみ。日本側は各艦とも命中弾は受けたが、沈没したのは水雷艇3隻だけであった。

 人員の損害はロシア側が戦死約5000名、捕虜約6100名で、日本は全軍を通して将校以下戦死が116名、負傷者538名で人的被害においても圧勝した(死傷者の数は戦後若干増加)。

 5月31日、日本はセオドア・ルーズベルト米大統領に講和の調停を申し入れた。日本の世論工作により、アメリカの国論も日本の勝利を讃えていた。そして難色を示すロシア牽制のため、ルーズベルトは、日本の樺太占領を提案する。日本軍は、最後の力を振り絞り占領を完了した。

 そして明治三十八年(1905)九月五日、日露はルーズベルト米大統領の斡旋で講和(ポーツマス講和条約)を結び、ロシアも渋々ながら戦いに終止符を打った。佐世保の海軍病院に〝収容〟されていたロジェストヴェンスキー中将も傷が回復し、帰国の途に就いた。

 テレビはもちろん、ラジオもまだなかったこの時代だったが、「日本海海戦の大勝利」はまたたく間に全国に知れ渡り、勝利の部隊を迎える凱旋門が全国各地に作られた。東京でも日比谷や新橋、日本橋、浅草など各所に凱旋門が作られ、人々は道路の両側はもちろんのこと、道路沿いの民家の屋根にまで登って凱旋部隊の〝勝利の行進〟を拍手喝采で出迎えている。

東郷平八郎大将の凱旋
明治38年10月22日に天皇陛下への奉告のため、東京に凱旋した東郷を熱狂的に迎える民衆。右手には戦勝を讃えるために建造された凱旋門が見える。国立国会図書館所蔵
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