昨年11月、水木しげるが93歳で亡くなった直後から急速に売り上げを伸ばしている文庫本、『水木サンの幸福論』。この本が俄に注目されたのは、巻頭にある〈幸福の七カ条〉が、水木を追悼するテレビ番組やツイッターなどのSNSで紹介されたのがきっかけだった。
 食べることと寝ることが大好きな一方で言葉の覚えが悪く、小学校の入学を1年遅らせた子どもの頃から「幸福って何だろう」と自問自答しつづけ、大成して後に自ら幸福観察学会を作った水木。そんな水木が自身の体験だけでなく、妖怪を探して世界を旅しつつ幸福な人と不幸な人を観察して見つけ出した七カ条は、この第一条からはじまる。
〈成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない〉
 ここだけを取り出してながめれば、掃いて捨てるほどある幸福論本や自己啓発本のどこかで見かけたような気がする。結果を求めるのではなく、過程を大事にしろという類だ。こういうとき、読者は何をもってそのフレーズの真価を見定めればいいのか、実はよく知っている──発言者の人生の内実である。
 40歳を過ぎてようやく漫画家として人並みに暮らせるようになった水木が、それまでどのように生きてきたのか。この本の大半をしめる「私の履歴書」を読めば、その実状がよくわかる。左腕を失った凄惨な戦争体験はもとより、食うために四苦八苦してきた戦後の暮らしはうんざりするほど厳しい。だからこそ、それでも命を削るように漫画を描きつづけた水木が、いかに絵を描くことが好きなのか実感できる。第二条に〈しないではいられないことをし続けなさい〉と書いた水木は、自身の実践をもって説いているのだ。
 目に見えない妖怪の世界をユーモラスに描いてくれた稀有な漫画家、水木しげる。その生涯を読みおえ、あらためて〈幸福の七カ条〉を見てみれば、第六条の〈なまけ者になりなさい〉にさえ感じ入る。

週刊朝日 2016年1月22日号