ここで地引き網を引くと鯵やシラスが獲れた。シラスは生で食べ、残った分は持ち帰る。母がゆでてくれ、新聞紙の上で乾かす。シラスはいまも好物だ(写真:狩野喜彦)
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 日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2024年6月17日号では、前号に引き続きNEC・遠藤信博特別顧問が登場し、「源流」である幼少期を過ごした神奈川県大磯町を訪れた。

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 2003年4月、モバイルネットワーク事業本部のモバイルワイヤレス事業部長に就いて、「パソリンク」という装置の事業を引き継いだ。携帯電話などの基地局をつなぐ小型の無線装置で、NECが開発した。一時は国内でどんどん受注があって成長したが、大量の信号を高速で送ることができる光ファイバー網が築かれると、主役の座を奪われて赤字に陥っていた。

 着任して「3年以内に黒字にできなければ、事業部長を辞めてもいい」と心に決めた。活路は、みえていた。前任者は力を入れていなかった海外展開へ、注力する。光ファイバー網を敷くには膨大な資金が必要だが、「パソリンク」なら通信の品質は少し下がっても、適度な間隔に無線基地局を置いていけばいいだけ。国土が広く資本力不足のインドやアフリカ、南米などにぴったりのはず、と読んだ。

 大事なのは、新興国向けに安くつくることと、相手の市場の実情と購買力に応じた柔軟な売り方だ。前者では福島県にあった製造子会社へ出向き、安い価格で売っても黒字が確保できる台数を計算させる。当時の月産4千台を6千台にできれば黒字化すると聞き、「必ずそれだけ売る」と約束してつくらせた。後者では海外営業を受け持つ面々に、相手国へ出張に出たら買い手と最低でも2度会って、相手の懐事情に即した対応をしてくるように指示をする。

 商談には自らも出向き、有望な市場だったインドには毎月のように訪れた。出荷台数はすぐに月間1万台規模に増え、3年間で月平均2万5千台となり、世界市場のシェアは約3割に達する。読みは、当たった。

 企業などのトップには、それぞれの歩んだ道がある。振り返れば、その歩みの始まりが、どこかにある。忘れたことはない故郷、一つになって暮らした家族、様々なことを学んだ学校、仕事とは何かを教えてくれた最初の上司、初めて訪れた外国。それらを、ここでは『源流』と呼ぶ。

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