仲田は阪神に骨を埋めるつもりだったが、「そこまで言うんやったら、出て行きます」とあとに引けなくなり、涙ながらにFA権を行使。その後、91年秋のキャンプで臨時コーチとして指導を受けたロッテ・広岡達朗GMから「何としても再生したい」と誘われ、移籍が決まった。
だが、ロッテ1年目は9試合で0勝1敗、防御率6.23と結果を出せず、広岡GMが退団した翌97年も、2軍で苦闘の日々が続く。すでにチーム構想から外れていたが、山本功児2軍監督が「ワンポイントとしてせめて1軍のマウンドに立てるようにしてやりたい。やるだけやってあかんかったら、戻したらいいじゃないか」とサイドへの転向を熱く説得。「そこまで仰るのなら」と本格派へのこだわりを捨て、松沼博久コーチの指導を受けた。
1カ月後、故障の園川一美に代わって1軍昇格をはたすも、サイドの投げ方になじめず、園川の復帰で再び2軍へ。シーズン後に戦力外通告を受けた。
「このままでは終われない」と阪神の入団テストを受け、一度は合格内定を告げられるが、直後、打者で受験した遠山昭治の投手としての採用が急きょ決まった結果、FAからわずか2年で現役引退となった。(文・久保田龍雄)