哲学者 内田樹
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 哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。

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 散歩をしたことがない。そう言うとびっくりされる。ほんとうにそうなのだ。子どもの頃には「犬の散歩」というものを毎朝していたが、あれは犬が散歩しているわけで、私はその付き添いである。

 当てもなくふらりと旅に出るということもしたことがない。若い頃、同世代に「バックパッカー」という人たちがいて、海外をあてもなく旅行していたが、どうすればそんな旅ができるのか、動機も方法もわからなかった。バイクや車で「あてもなくふらりと旅に出る」ということもしたことがない。私はバイクも車も大好きだけれど、それはあくまで目的地に最短時間で到着するための快適な手段として好きなのであって、目的地を決めずにツーリングやドライブに出かけたことは一度もない。

 そうカミングアウトしたら春日武彦先生からは「病的な合理主義者」という診断を下して頂いた。ずいぶん以前だけれど、名越康文先生からは「狂い過ぎていると発症しないこともあります」と診断して頂いたことがある。

 先日、散歩と観察が大好きな独立研究者の森田真生君と久しぶりにお会いして、「僕は森田君と違って、散歩も観察もできないんだ」と告白しているうちに、ふと理由に思い当たった。それは私がものを書いている時に、あっちへふらふらこっちへふらふらして、そこらに転がっているものを細かく観察するせいなのではないか。書きながら脳内ではずっと散歩をしているので、実際に歩く必要を感じないのだ。

 村上春樹は河合隼雄との対談で「夢を見ない」と話していた。あなたは物語を書いているから夢を見る必要がないのでしょうと河合先生は即答していた。なんと、物語を書いている人は夢を見ないのか……とその時は仰天したが、私も似た症状なのかもしれない。ものを書くときに限って、脇道に逸れ、立ち止まり、道端にある「変なもの」の観察に時を忘れるのは、私にとっては散歩の代償行為なのかもしれない。

「それがどうした」と言われそうだが、まさに「そういうこと」を書かずにいられないのが私の症状なのである。読者のご海容を乞う。

AERA 2024年4月8日号