哲学者 内田樹
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 哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。

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 二階元幹事長が代表をつとめる政治団体が約3500万円を書籍代に投じていた。購入図書の内訳を見ると、『ナンバー2の美学 二階俊博の本心』『二階俊博幹事長論』『自民党幹事長 二階俊博伝』といった「自分についての本」が過半だった。中には1作だけで1千万円を超える購入代金を支払った本もある。原資には税金も含まれる。他人の金を使って自分についての本を買って、配布するということをこの人は「恥ずかしい」とは思わなかったのだろうか。思わなかったのだろう。思っていたら、こんなことはしない。今どきこんなことを言うと世間知らずと笑われそうだけれど、「あなたには矜持というものがないのか」と言いたくなった。二階氏はおそらく自分のことを「国士」の類いだと思っているのだろうが、その自己認識は誤っている。士の本質は腕力でも金力でもなく、「痩せ我慢」だからである。

 福澤諭吉はその『瘠(やせ)我慢の説』にこう書いている。「瘠我慢の一主義は固(もと)より人の私情に出ることにして、冷淡なる数理より論ずるときはほとんど児戯に等しといわるるも弁解に辞なきがごとくなれども、世界古今の実際において、所謂(いわゆる)国家なるものを目的に定めてこれを維持保存せんとする者は、この主義に由(よ)らざるはなし」

 福澤は痩せ我慢こそが「立国の大本」だと言う。幕末維新の時、徳川家の命脈尽きたことを察して、「敵に向てかつて抵抗を試みず、ひたすら和を講じて自から家を解きたる」ことは合理的な解ではあったが、「数百千年養い得たる我日本武士の気風を傷(そこな)うたるの不利」をもたらした。戦火で江戸の町を灰燼(かいじん)に帰すことは避けられたが、士風は失われた。得失を計算すると日本は大赤字になったと福澤は言う。

 ただし福澤は日本人全員に向かってそう言ったわけではない。『瘠我慢の説』は勝海舟と榎本武揚に宛てた「私信」なのである。あんたたちみたいな例外的なスケールの人は痩せ我慢をしてでも士道を貫いて国の大本を守る義理があったんじゃないかい、と書いたのである。

 公金の支出明細を見て、日本の要人たちの辞書から「痩せ我慢」の文字が消えて久しいことを知った。

AERA 2024年2月26日号