東京の郊外化加速でほぼ現在の形の計画に
見直しで新宿と大塚を結ぶ路線は、丸ノ内経由ではなく築地、茅場町といった今は日比谷線が走るエリアまで迂回(うかい)する経路に改められ、これを「4号線」と定めた。東京駅丸ノ内側は渋谷と巣鴨を結ぶ「3号線」が担当することになった。
ちなみに3号線のうち、渋谷~新橋間は浅草~新橋間と接続して一体化、新橋~巣鴨間は都営三田線のルーツとなった。地下鉄は主要道路の下に建設する都合上、どの時代でも想定されるルートは大きく変わらない。路線図の変遷は、接続駅ごとに「切った貼った」した結果というのが実際のところだ。
大きく迂回することになってしまった4号線だが、震災以降、東京の郊外化はさらに加速し、池袋、新宿、渋谷などのターミナルを発着する私鉄沿線の市街地化が進んだ。また丸ノ内では高層ビルの建設が進み、日本橋に代わる新たなビジネスセンターとしての地位を確立していく。
そうなると輸送需要に応えるため、特に利用者の多い池袋、新宿、渋谷と都心を直結する必要がある。そこで4号線を丸ノ内側経由に戻すとともに、終点を後背地の小さい大塚から池袋に変更した。
これに伴い、池袋起点だった「5号線(後の東西線)」は、西武線が発着する高田馬場方面へと順次ずらすなど、全体的な再検討、再設計が水面下で進められた。これは終戦翌年、戦災復興計画を織り込んだ新たな地下鉄計画に反映され、4号線は正式に池袋~丸ノ内~新宿間の路線となった。