DJをする北島さん。日や時間帯でDJは変わる(撮影/羽根田真智)

「僕が引き継ぐ前もディスコだったんですが、なんか違うと思っていたわけですよ。六本木のようなディスコは絵的に合わない。鶯谷のような下町は、歌謡曲が合う。だから歌謡曲カフェと名付けて、昭和をモチーフに、気取らずに、まるでスナックで踊り出すような雰囲気の“スナックディスコ”にしているんです。でも曲は本格的で、マニアックなものもかける。コンセプトはタイムマシン。シニアが女になったり男になったりして騒ぐ」(北島さん)

 X(旧Twitter)で「Lover’s」の情報を発信するDJ☆Sさん(62)は、通い出して12〜13年になる常連客だ。

 ファンクやソウルが好きで、1976年からディスコで遊び始めた。ディスコナンバーといえば誰もが思いつくだろう「ダンシング・クイーン」を、アバがリリースした年にあたり、まさにディスコ全盛期だった。

「親の世代の曲が好き」だという20代も訪れる。老若男女楽しめるのも昭和ディスコの魅力(撮影/羽根田真智)

ジュリアナで足が遠のいた

 ディスコ文化をご存じない方のために歴史をささっとおさらいしよう。

 ワンレン、ボディコン、お立ち台で知られる宮殿ディスコ「マハラジャ」が麻布十番にオープンしたのは1984年で、実は第1次ディスコブームが去った後のことだ。Tバックをはいて扇子を持って踊る風景がよく取り上げられる「ジュリアナ東京」のオープンはもっと後で、バブル崩壊の2カ月ほど後、1991年5月の話なのである。

 DJ☆Sさんが言う。

「ジュリアナ東京の辺りから、曲が合わなくなり、ディスコに行かなくなりました。でも、ファンクやソウルはずっと聴いていた。20年ぶりくらいに、ディスコがどうなっているのかなと、ふと気になり、見つけたのがLover’s。早速行ってみると、ファンクやソウルがかかっていたんです!」

 毎週土曜日の夜、思いきり踊る。今でこそ他の常連客と話したり共に踊りを楽しんだりするが、当初は「誰も来るなよオーラ」を発し、一人ひたすら踊りに没頭していた。オーナーの北島さんと話をするうち、「当時のディスコや曲を知っているなら、DJをやってみない?」と誘われたのだ。

「北島さんも僕もディスコ全盛期を経験しているけど、全盛期のディスコをそのまま持ってくるのとは違うとも感じている。なぜなら、ここは鶯谷。ファンクもソウルもロックもユーロもニューウェーブも、さらには昭和歌謡やフォークダンスまで、何でもあり」(DJ☆Sさん) 

 訪れる常連客の人生もいろいろだ。生まれも育ちも北千住というマシャさん(65)は、体調が悪くない限り、毎週土曜日、そして日曜日は月2回、自転車で20分かけて「Lover’s」に通う。初めて「Lover’s」の扉を開けたのは、2016年夏のことだ。

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